茶とキリスタン

「棗」は最初は茶入と並んで「濃茶器」として使用されていました。
その場合棗は仕覆を着せています。

茶壷の中には幾種類かの「濃茶の碾茶」が紙袋に入っているのです。
この詰め茶は濃茶の保護と断熱の為にり、
すし漉すことで薄茶として使われます。

この茶壷の中の関係が「濃茶」と「薄茶」となります。
「濃茶器としての茶入」は「挽家」と言うものに入っております。
初期の薄茶はお茶を挽く時に入れる「詰茶入」に入れていたともいわれています。

濃茶は貴族、武家の上流社会で主として用いられることが多く、
楽茶碗は長次郎のころは黒茶碗が多かったのですが黒はキリストの聖職者が身にまとう黒の影響を受けていると考えられます。
そして楽茶碗は濃茶をいただくためのお茶碗です。
薄茶は庶民がいただく侘びたものとして考えられていた。

江戸時代に入り茶道人口も増えだした頃に「小堀遠州」の「中興名物」の勃興にともない、
「棗、塗茶器」の類は「薄茶器」としての役割を担うことになります。

ところで信長の前に20年間天下を納めていた人物がいます。
それは三好長慶(1522-1564)で キリスタン大名を大阪、京都、奈良、堺に置いていた。
つまり日本の中心を納めたら当時は天下人になります。
その背景には鉄砲の力があり、その火薬はポルトガルから仕入れそれを仲介したのがイエズス会です。

三好義継の本名が利長で弟が実休、そこから利休となります。
そして千利休の先妻である法名を「宝心妙樹」という三好義継の妹と結婚したのではと推測できます。
千利休には4人の子供ができて、長男は紹安という名前です。キリスタンを思わせるような名前ですが、後に秀吉のキリスト教弾圧が始まると道安に改名しています。
しかも利休切腹前に遺言で全財産を紹安に託してキリスタン大名の前田家へ、後妻宗恩の連れ後である小庵は蒲生家にかくまわれています。

三好義継の死により、近畿などで強大な勢力を誇った、戦国大名としての三好家は織田信長(1534-1582)によって滅亡しました。
1568年、織田信長は足利義昭とともに上洛を果たします。
信長もまた鉄砲、火薬を用いてます。
つまりイエズス会がバックにいて、西洋の科学や医術など新しい文化を広めていく一方では布教活動と茶の湯を利用しています。
ローマ法王は、「日本のすべてのキリスト教施設の中には茶の湯を飲む場所を設け、住み込みで茶の湯についてのなにがしか心得のある同宿を置かなくてはならない。ことに立派なひとびとが集まるところではそうである」
という指針を設け、日本のキリスト教施設の中に積極的に茶の湯を取り込むよう指示しています。
立派なひとびととは貴族や上級武士をいいます。

信長は永楽通宝を作り 十字を切る読み方にしています。
安土城の上に天守を作ってます。

「利休七哲」は、高山右近、蒲生氏郷、細川三斎、柴山監物、瀬田掃部、牧村兵部、古田織部となっており、すべて武人で大名茶人です。
茶庭などに置かれた灯籠の中には「キリシタン灯籠」と呼ばれ、マリア像に見立てられてキリシタン弾圧後にもひそかに崇拝の対象となっていました。
また茶室の入口である「にじり口」も利休の創作とされていますが、露地の中門も狭い門であり、にじり口は、身を小さく縮めなくては入れないごく狭い入口です。
私は合気道と居合道の修業をしています。そこで槍に見立てた棒や刀をもって躙り口から入ってみたところ問題なく茶室へ入れます。
だから刀や槍を持ち込めないという説にいは無理を感じます。
それよりも「狭い門から入れ」という聖書の言葉に通じるほうが理にかなっています。

 利休以後に始まる濃茶の回しのみは、カトリックのミサで司祭と信徒が一つの聖杯から葡萄酒を共に飲む儀式によく似ており、
茶巾と聖布の扱いも酷似している。
 利休には、高山右近をはじめ蒲生氏郷、瀬田掃部、牧村兵部、黒田如水などのキリシタン大名、あるいは、キリスト教と縁の深いガラシアの夫の細川忠興などや、古田織部などが大勢いた。
1587年、博多にいた秀吉は、突然に禁教令を出し、まず高山右近に使者を送ってキリシタンの棄教を迫ったのですが。
 右近の強い意志を知った秀吉はすぐに陣営にいた右近の茶道の師、千利休が使者に選ばれました。
 四年後に大徳寺山門事件では利休も又秀吉の勘気を蒙りながらも、秀吉に迎合せず、一切の妥協を排したために、切腹を命ぜられ、その首は都の戻橋で晒されたのでした。


茶道の濃茶では一つの茶碗から抹茶をまわし飲みし、ミサではパンとぶどう酒の入った聖杯をまわし飲みします。
利休より前の時代は、濃茶も一服ずつ点てられていました。
キリスト教の聖杯の飲みまわしは、そのルーツをあの「最後の晩餐」に持ちます。
イエスが十字架にはりつけにされる前夜、エルサレムのある二階座敷で、弟子たちとともに記念の晩餐をしました。
キリスト教が普及し始めた頃は仏教寺院を教会堂として使用してます。
茶道の「茶巾」と「聖布」の使い方、特にそのたたみ方が似ています。

茶道の場合は、濃い茶のまわし飲みの後、帰ってきた茶碗にお湯を入れて回してすすぎ、そのお湯を捨ててから茶巾で清めます。
ミサのほうは、聖体拝領が終わった後はパン皿を拭いて、聖杯に水を注いですすぎ、聖布で清めます。

両方ともたたむ動作を見ている人には非常に似ている印象を与えます。
キリシタンでは同信の間柄でなければ結婚できません。
つまり古田織部が高山右近の妹を娶って義兄にあたるというところがキリシタンの教えに従っています。

以上から濃茶はミサの葡萄に代わるため緑のミサともいわれます。
そして濃茶でのミサが終わったころ薄茶が出されてもおかしくないと思います。

また茶事の御座での床の間中央に釘に一輪挿は十字架を表している。
そして茶室には躙り口の狭き門から入ります。

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。 しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」
マタイ福音書7章13節~14節

2024年01月19日