同じ禁中茶会でも内容は利休と玄々斎とは真逆その真相は

禿ネズミ、猿と言われた無教養の秀吉にとつて利休はその穴埋めをしてくれる存在であり、
人間関係においても利休にはかなわず、大規模になった秀吉軍を裏で支えていた人物となります。


しかし大阪城内では利休を中心としたキリスタンの勢いが強くなってきたため、暗殺される恐れを感じた秀吉は、朝廷を味方につけて、関白になれば恐れおののいて敵対しなくなると思い、関白近衛前久(さきひさ)の養子となって1585年に関白秀吉になりました。


そして関白就任後3ケ月後の1585年11月28日に禁中茶会が開かれました。
これによって秀吉は、利休とその背後にあるキリスタンの脅威に立ち向かう力を得たと喜んだことでしょう。



秀吉が一番キリスタンを嫌がったのは一夫一妻制で妾を持つことが許されなかったこと、そしてローマ法王という巨大な力が邪魔になったんです。

 

そもそもキリスタンが大阪城内で拡大していくきっかけは、小牧・長久手の戦いで大阪城ががら空きになりそのスキに広がり始めました。


1585年11月28日に禁中茶会が利休による台子点前で行われました。
台子は当時全能の神ディウスを大臼(だいはく)と呼んでいました。
そして黒の真塗の台子を全能の神ディウスと見立ててていたため、秀吉は台子を禁止していたのですが、その台子でお点前をして濃茶の回し飲みをしたのです。


回し飲みはイエスキリストの最後の晩餐です。
キリスタンを嫌う秀吉の前で朝廷の面前で禁中にキリスタンを持ち込んだんです。

禁中茶会の出席者の中に、キリスタン大名であるレオン浦生、ジュスト高山やキリスタンに理解を示す豊臣秀次がいました。



後に関白秀吉によって
レオン浦生は毒殺(毒殺説が有力)
ジュスト高山は国外追放
豊臣秀次は切腹させられています。

その他のキリシタン大名2名はそのご行方不明になりました。
禁中茶会に参加したアンチキリスタンである細川忠興ただ一人だけが無事でした。

 

1591年2月13日利休は、堺の自宅を閉門の上一室に謹慎させられました。

同年2月28日京に呼び戻されたうえで切腹しました。

その間3000人の兵隊に囲まれてまるで戒厳令のようです。

 

 

豊臣秀長の死亡は1591年2月15日死因は病死。死後間を置かず同年2月28日に利休が切腹してます。
もし秀長が生きていたら利休の切腹は起こらなかったでしょう。
キリスタンに理解あるものが消されたという風にしか見えません。
私個人としては秀長は病死ではなく毒殺の可能性が感じられます。独裁者は合理的に邪魔なものを排除しますから。


そして利休切腹により以後禁中茶会は行われなくなりましたが、それを復活させたのが11代玄々斎で1865年、孝明天皇に献茶をしました。
この献茶が和巾点の原型になります。しかしこの和巾点も台子12段の和もの茶入を使ったお点前を応用しています。

しかも孝明天皇は外国嫌いなので台子は使っていません。お点前はすべて和で統一され、このお点前からは四ケ伝でありながら外国のお道具は使われていません。


2024年02月13日