茶道は村田珠光や竹野紹鷗によって豪華な茶の湯から質素な茶の湯へと変化してきました。
村田珠光は「月も雲間のなきは嫌にて候」といって、完璧さを嫌っています。
しかしそれなのに茶席での料理は三好長慶や織田信長を中心とした人たちによって、豪華な本膳料理が出されていました。

1587年といえば秀吉の伴天連追放令が出された年になります。
大徳寺の和尚古渓宗陳は筑紫に流されることになり、ひそかに送別会が開かれました。
その時のお点前が台子点前です。

利休は若い時から大徳寺の古渓宗陳和尚へ参禅のたびに食した禅僧での夕食、そして精進料理が茶道での懐石料理となり、真之茶事が誕生したんです。

豪華な本膳料理に対して質素な一汁三菜である懐石料理を徹底させたのも利休になります。

千利休こと田中与四郎は三好長慶の実名利長の利と弟の実休の休をもらって23歳のときに大徳寺北派の大林宗套から利休と命名されその3年前に、長慶の妹「稲」を妻にしてます。
しかし信長によって三好家が滅ぼされたことで利休という名が消えて稲に関する情報も歴史から消えてしまいました。

1585年秀吉は関白という位につきました。そのときのお茶会で、利休は正親町天皇に台子による献茶を行っています。
そして利休は、正親町天皇(おおぎまち)から「利休」と改めて言わせ、天皇からいただきそして一日だけの仮の名セント・ルカと名乗って台子によるお茶会、秀吉が一番嫌がっているミサを朝廷の中で行ったんです。

つまり大徳寺の古渓宗陳と利休はイエズス会同士なのです。

古渓宗陳は利休に抛筌斎という号を与えています。

抛というのは抛(ほう)る、捨てるということ筌というのは竹製の漁具のこと、そして家業の魚問屋を捨て、茶の道に専念するという意味です。

 

その古渓宗陳和も大徳寺山門木像事件では同罪とみなされ磔を命じられています。

それに対して利休が切腹を命じられたのは、利休は三好家の一族だからで最後は武士として扱われたんです。

大徳寺聚光院に三好家の墓と並んで利休の墓が立てられています。

 

ところで大徳寺には朝廷と仏教勢力の南派と三好家や南宗寺のようにイエズス会勢力の北派が対立していました。

足利尊氏が北朝の光明天皇を擁立し,後醍醐天皇が吉野に移り南朝を開いき、大徳寺の北派は南朝を指示していました。南朝が負けたため北派は負け組となり、勝ち組である北朝指示の南派から迫害を受け、北派は北朝指示の南派と対抗して隠れキリスタン大名の菩提寺になったんです。

 

ポルトガルを南蛮といい教会を南蛮寺、南方禄はキリストに関する事が書かれていて、それを悟られないように書かれています。
台子そのものが全能の神ディウスを表しているため、分かってしまうと生死にかかわるので証拠を残さないために口頭で認めた一部の弟子に伝えました。なので秘伝になります。

 

豊臣秀次、豊臣秀長、高山右近、細川忠興その他数人は利休から台子点前を伝授されています。

そして秀次は切腹、秀長はおそらく毒殺、右近は日本追放その他数人すべて殺されたか追放されています。

細川忠興を除いて、

その細川忠興は巧妙な駆け引きによって秀吉からの迫害を免れ、利休切腹のときの介錯人を自分の家来から出しています。そして時代は移り細川家から第79代総理大臣細川 護煕 (もりひろ)を輩出してます。

 

1585年秀吉は関白になり

1587年秀吉太政大臣になる 朝廷を味方にする

1587年伴天連追放令

1591年2月15日、台子を伝授され、キリスタンの理解者であった秀長が病死(毒殺)

1591年4月21日、千利休切腹

 

もし秀長が生きていたら切腹は免れたでしょう。

利休と同罪の古渓宗陳ら3人は磔の軽から免れています。

千利休も切腹を免れた可能性が非常に高かかったと思います。

切腹をあえて受け入れたとしたら死を前にしての落ち着きが理解できます。

 

利休めは とかく果報の ものぞかし 菅丞相に なると思へば

私、利休めはつくづく果報者である、菅原道真公のようなあらひと神になると思いば

私感です。

真之真台子の点前から亡き妻を忍ぶ様子がお道具の設えと帛紗の扱い方から感じられます。(たぶん私だけだと思いますが)

真之真台子での帛紗の扱い方は真之行台子以下のお点前とは違います。

 

切腹のため大阪から京都の淀まで籠で護送され、淀の船着き場で見送りに来たのが古田織部と細川忠興でそこで最後の別れをしたのでしょう。

思いやれ 都を出でて 今夜しも

淀の渡りの 月の船路を

 

千利休が、自から茶杓を削り、最後の茶会に用い、古田織部に与えた茶杓「泪」に、長方形の窓をあけた筒をつくり、その窓を通してこの茶杓を位牌代わりに拝んだと伝えられます。

筒は総黒漆塗でキリスタンを思わせこれを垂直に立てると位牌に見えます。

 

●利休切腹の原因については、大徳寺山門に掲げた利休木像の件が一般的に知られますが、秀吉の本心は利休と利休を慕う武将たちそしてその背後に潜むイエズス会という巨大な力を恐れていたからで、それゆえにキリスタンとは対照的な朝廷の力にこだわったのでしょう。

 

利休切腹の4日前の利休最後の茶会に、ただ1人招いた客が徳川家康でした。
その時使用された茶杓が「泪」であり、その後古田織部に遺贈されてます。
徳川家康の茶の湯の師匠は古田織部ですがその徳川に切腹させられました。


2024年03月29日