台子の飾火箸ではなぜ手をついて扱うの?

 利休の台子点前は、『草』『行』『真』『草行真』から成り立っています。

季節で言えば『草』が春 『行』が夏 『真』が秋 『草行真』冬

 

古事記になぞってみると

『草』の春はイザナギ、イザナミが誕生と結婚

 

『行』の夏はわが子ヒノカグツチによって妻イザナミがやけどを負って死んでしまいます。

方位では離 

行之行台子では離に茶巾を置き湿らしておきます。

離に茶巾を置くお点前は12の台子手前で行の行台子だけです。

そしてイザナギが苦しみ、迷い心が乱れるので『乱れ飾り』とも言います。

 

『真』の秋は妻と別れたイザナギは黄泉の国へ行って妻に合いたいと願います。

中置の季節のでは真之行台子から真之真台子点前へと進みます。

土用の節分になり黄泉の国へと旅立ちました。

なので飾火箸は一本一本分離して勝って付けに置き、最後に杓立てに戻り合わさります。

 

『草行真』の冬は黄泉の国

 

『草』ではまだイザナギ、イザナミが結婚をしていないので、台子点前でも飾柄杓は登場してません。

 

『行』では心が乱れているため、占いで使う八卦盆が登場します。

八卦盆に置かれる茶杓の位置は、占いで使う方位の位置そのものです。

 

たとえば茶杓は巽の方位に置きます。巽は風、集中しないと茶杓が風で飛んでしまう、唐物や行之行台子で茶杓を茶入に立てかけるとき、雑念があると茶杓は落ちてしまいます。

乱れているからこそ集中しなさいと解釈します。

 

千利休が武野紹鷗の茶の湯から利休茶の湯に代わったのは、1582年6月21 日(天正10年6月2日)本能寺の変からです。

本能寺の円乗坊宗円が南蛮寺のイエズス会に知らせ、利休の弟子長谷川 宗仁によって高山攻めの秀吉知らせ、オルガンティーノによって「キリスタン大名に秀吉に付け明智光秀を討て」と命じ、秀吉に追従していた黒田官兵衛の進言により、山崎の合戦ではキリスタン大名や利休の弟子たちが活躍をして明智光秀を滅ぼしました。

 

黒田官兵衛はその後洗礼を受けてドン・シメオン黒田となっています。

この事件からさらに強くキリスト教へと傾き、キリストと茶道を交えた利休茶の湯へと変わっていくのです。

 

その代表が台子です。この時代では台子はディウスとも呼ばれディウスの神を表しています。

 

利休の台子茶会を行ったのは、1582年 本能寺の変直後になります。

1582年の禁中茶会

1585年の禁中茶会では正親町天皇から利休と命名させて、しかもイエズス会から1回だけのセント・ルカという名で台子点前を行ってます。

そして1587年の伴天連追放令の翌年、大徳寺の古渓宗陳 の送別会でひそかに行ってます。

 

その台子も1587年の伴天連追放令からは禁止されています。

なので台子でのお点前は秘伝となって現在では奥伝として、上級者以上から文章ではなく口頭で伝えられています。

 

ロレーヌの十字架をまねて作られたのが灯籠になります。

また十字架をまねて作られたのが神社の手水で使われる柄杓で、差通しになって十字を切っています。

その差通の柄杓は台子点前で使われます。

差通し柄杓の左右には飾り火箸が置かれ、差通し柄杓を挟んでいます。

 

飾り火箸は男女を表していると想像します。

男女が十字架を拝んでいるようにも見えます。

 

草では天地創造の時で人が現れてはいません。

なので草之草台子では差通し柄杓や飾り火箸は登場していないんです。

 

行之行台子では差通し柄杓や飾り火箸は登場していますが、飾り火箸は2本一組で扱われます。

つまり別れないのです。

それに対して真之行台子での飾り火箸の扱いは1本づつになります。

この時点で別れています。

そして再び杓立てに戻り一緒になります。

 

1590年3月に始まる小田原征伐では、秀吉軍は総勢21万で小田原城を取り囲みました。

一方、守る北条氏直軍は総勢は8万人ですが、北条氏と伊達政宗は軍事同盟を結んでいます。

 

秀吉軍の中の徳川軍や織田軍は、1586年の小牧長久手の戦いで破れています。

ということはいつ寝返りを打つか分からない、

また千利休には多くのキリスタン大名が従っていたため、秀吉を討つチャンスが到来していたのです。

 

伊達政宗は北条氏との軍事同盟を破棄して秀吉軍に参戦することになりましたが、

百姓一揆が勃発したため鎮圧に時間がかかり参戦に遅刻をしてしまいました。

 

利休は病気を理由に箱根湯本で療養中、参戦の遅刻の謝罪に秀吉に会うその前に利休の茶の湯をいただきながらお話をする。

 

このお話の内容は数々の資料から想像するに秀吉打倒の談判、しかしその前に秀吉によって箱根の底倉という地に幽閉されてしまいました。

 

伊達政宗と利休との間で秀吉への謀反のような内容の手紙が秀吉に伝わったかもしれません。

そうなると利休は明智光秀のような死を感じたに違いありません。

 

小田原征伐で頻繁に行われているお茶会には徳川家康、織田信雄、細川忠興、上杉 景勝(うえすぎ かげかつ)等が出入りしてますが、秀吉の出入りはなかったようです。

利休が韮山の竹で作った竹一重切花入『園城寺』は小庵へ、二重口花入れ『よなが』、尺八花入れは談合の結果、誰にどれを渡すかという暗号だったのかも知れません。

 

利休は小田原征伐の1年前、伴天連追放令の2年後に妻宗恩とともに生前葬を行い、すべての財産は本妻宝心妙樹との子であるジョウアン、別名道安に渡す。大徳寺聚光院に米10石を寄付するという遺言も書かれています。

 

生前葬を行う1~2年前に台子点前を完成させて数人に秘伝として伝えています。

細川忠興もその一人で、それ以外の人は、豊臣秀次は切腹、豊臣秀長、レオン蒲生氏郷は毒殺、高山右近は日本国追放、柴山監物は行方不明になっていて台子点前の禁中茶会に出席したメンバーです。

 

台子点前での飾り火箸は勝手側が陰の女性、客付き側が用の男性。そして男女の前には差通しの柄杓である十字架。

 

人の魂を扱うため手をついて飾り火箸を十字架の前から抜き陰の勝手付き側に置き前世に戻り、再び十字架の前に戻り結ばれるのです。

 

差通しの柄杓は十字架なので粗相がないように左手をついて扱います。

そして 「父と子と聖霊」 は真之行台子で行われる追柄杓になります。

 

処刑されるため護送され淀の船着き場で古田織部と細川忠興との最後の別れで書いた利休の辞世では

利休めはとかく果報のものぞかし菅丞相になると思へば

 

直訳すると

私、利休めはとにかく果報者であることよ。菅原道真公のようなあら人神になると思えば。

私、利休めはとにかく果報者であることよ。イエスキリストのようになると思えば。

 

これは私感です。 

12の台子点前の流れから、千利休は殉職して神になり、再び妻と巡り合うお点前のように感じます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2024年07月04日