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利休にとっては中国(明)は脅威ではなくむしろ・・・

大徳寺は鎌倉末期、小屋から始まり各地へと広まり、さらに後醍醐天皇によって別格とされる南禅寺とともに定められた京都にある五つの禅宗の寺院に昇格しました。

1336年足利尊氏が北朝の光明天皇を擁立したのに対抗して、後醍醐天皇が吉野に移り南朝を開いた南北朝の時代が始まります。

 

しかし尊氏が死去した後、3代将軍である足利義満が南北朝を統一、そして北朝が勝ったため負け組の大徳寺は格下げになり、そのため仏教連盟を脱退して禅寺となります。

大徳寺では北朝を支持する南派と南朝を支持する北派とに分かれていて南派は仏教勢力、朝廷を支持。
北派は南宗寺、イエズス会、三好家を支持しています。

大徳寺の北派聚光院には利休と三好家の墓があります。
聚光院のジュとはポルトガル語でイエスという意味なのでイエスの光となります。
1595年に秀吉によって破壊された聚楽第は、聚楽第のジュを名乗っていたからだという歴史家もいます。

大徳寺の北派は南朝を応援していたため、負け組として苦難の道を強いられたので仏教嫌いになり、イエズス会を受け入れたのです。そして利休をはじめキリスタン大名の菩提寺になっています。

織田信長の先祖は織田神社の宮司でしたので仏教とは対立関係になります。
また信長は新しいものが好き、だから三好長慶がイエズス会を取り入れて、鉄砲隊を組織したことに強く関心を持っていたのです。

さらには日本製の優れた鉄砲を作っていて、イエズス会を驚かせていますが、日本には火薬が手に入らないため、
南蛮貿易が盛んにおこなわれるようになりました。
なので信長の模範は美濃の斎藤道三よりも三好長慶の方だったと思います。

信長は軍事面や経済でのポルトガルとのつながりが強く、高山右近の宣教師を人質に取って自分につかないと殺すと脅し自分の配下にしたことからある意味ではイエズス会を利用していたと思います。

日本は古代より中国から侵略されなかったその一つに外交がうまくいっていたからです。
それは中国文化を偉大な文化と称して、多くの僧侶が中国に留学してきました。
そのような国を攻めずらい、中国にとって攻めずらくした政策を国策を行ってきたからです。

戦国時代になりますと、信長をはじめ全国で60万の軍隊と10万丁の鉄砲で組織された日本は以前とは違い中国が脅威ではなくなっています。

そして利休は中国の唐物ではなく瀬戸焼、美濃焼等の国焼き和物や高麗を中心とした茶道へと変えてしまったのです。


そうなると利休が67歳前後で完成した台子点前の奥伝での唐物扱いは、中国からの美しく高価な伝来品という意味合いよりも神様への献茶に使う道具になり、奥伝では唐物一辺倒ではなく真之草台子点前のように和物を使っての台子点前が存在します。

玄々斎の1865年の孝明天皇への禁中茶会での和巾点は、真之草台子点前を台子つまりデウスの神を外してのお点前となります。
なぜならば孝明天皇は外国嫌いだからです。

古代イスラエル国家が滅亡してユダヤの氏族が極東の国日本へたどり着く前に、途中の国々に一部の氏族が定着しているため仏教もキリスト教の影響を受けています。

となると中国(明)を脅威としていた足利義満の時代の台子と、台子をデウスの神とした利休の台子では、まったく別次元の台子に進化しています。

 

そうなると台子12段の流れが読めてきます。
そして本能寺の変がなければ織田信長の天下布武はやがて中国へ進出してイエズス会と茶道を広めていった、そしてその後ろ盾が信長が率いるアゴスティーニョ小西行長の海軍とジョスト高山右近の陸軍であると想像します。

2024年07月21日

台子の飾火箸ではなぜ手をついて扱うの?

 利休の台子点前は、『草』『行』『真』『草行真』から成り立っています。

季節で言えば『草』が春 『行』が夏 『真』が秋 『草行真』冬

 

古事記になぞってみると

『草』の春はイザナギ、イザナミが誕生と結婚

 

『行』の夏はわが子ヒノカグツチによって妻イザナミがやけどを負って死んでしまいます。

方位では離 

行之行台子では離に茶巾を置き湿らしておきます。

離に茶巾を置くお点前は12の台子手前で行の行台子だけです。

そしてイザナギが苦しみ、迷い心が乱れるので『乱れ飾り』とも言います。

 

『真』の秋は妻と別れたイザナギは黄泉の国へ行って妻に合いたいと願います。

中置の季節のでは真之行台子から真之真台子点前へと進みます。

土用の節分になり黄泉の国へと旅立ちました。

なので飾火箸は一本一本分離して勝って付けに置き、最後に杓立てに戻り合わさります。

 

『草行真』の冬は黄泉の国

 

『草』ではまだイザナギ、イザナミが結婚をしていないので、台子点前でも飾柄杓は登場してません。

 

『行』では心が乱れているため、占いで使う八卦盆が登場します。

八卦盆に置かれる茶杓の位置は、占いで使う方位の位置そのものです。

 

たとえば茶杓は巽の方位に置きます。巽は風、集中しないと茶杓が風で飛んでしまう、唐物や行之行台子で茶杓を茶入に立てかけるとき、雑念があると茶杓は落ちてしまいます。

乱れているからこそ集中しなさいと解釈します。

 

千利休が武野紹鷗の茶の湯から利休茶の湯に代わったのは、1582年6月21 日(天正10年6月2日)本能寺の変からです。

本能寺の円乗坊宗円が南蛮寺のイエズス会に知らせ、利休の弟子長谷川 宗仁によって高山攻めの秀吉知らせ、オルガンティーノによって「キリスタン大名に秀吉に付け明智光秀を討て」と命じ、秀吉に追従していた黒田官兵衛の進言により、山崎の合戦ではキリスタン大名や利休の弟子たちが活躍をして明智光秀を滅ぼしました。

 

黒田官兵衛はその後洗礼を受けてドン・シメオン黒田となっています。

この事件からさらに強くキリスト教へと傾き、キリストと茶道を交えた利休茶の湯へと変わっていくのです。

 

その代表が台子です。この時代では台子はディウスとも呼ばれディウスの神を表しています。

 

利休の台子茶会を行ったのは、1582年 本能寺の変直後になります。

1582年の禁中茶会

1585年の禁中茶会では正親町天皇から利休と命名させて、しかもイエズス会から1回だけのセント・ルカという名で台子点前を行ってます。

そして1587年の伴天連追放令の翌年、大徳寺の古渓宗陳 の送別会でひそかに行ってます。

 

その台子も1587年の伴天連追放令からは禁止されています。

なので台子でのお点前は秘伝となって現在では奥伝として、上級者以上から文章ではなく口頭で伝えられています。

 

ロレーヌの十字架をまねて作られたのが灯籠になります。

また十字架をまねて作られたのが神社の手水で使われる柄杓で、差通しになって十字を切っています。

その差通の柄杓は台子点前で使われます。

差通し柄杓の左右には飾り火箸が置かれ、差通し柄杓を挟んでいます。

 

飾り火箸は男女を表していると想像します。

男女が十字架を拝んでいるようにも見えます。

 

草では天地創造の時で人が現れてはいません。

なので草之草台子では差通し柄杓や飾り火箸は登場していないんです。

 

行之行台子では差通し柄杓や飾り火箸は登場していますが、飾り火箸は2本一組で扱われます。

つまり別れないのです。

それに対して真之行台子での飾り火箸の扱いは1本づつになります。

この時点で別れています。

そして再び杓立てに戻り一緒になります。

 

1590年3月に始まる小田原征伐では、秀吉軍は総勢21万で小田原城を取り囲みました。

一方、守る北条氏直軍は総勢は8万人ですが、北条氏と伊達政宗は軍事同盟を結んでいます。

 

秀吉軍の中の徳川軍や織田軍は、1586年の小牧長久手の戦いで破れています。

ということはいつ寝返りを打つか分からない、

また千利休には多くのキリスタン大名が従っていたため、秀吉を討つチャンスが到来していたのです。

 

伊達政宗は北条氏との軍事同盟を破棄して秀吉軍に参戦することになりましたが、

百姓一揆が勃発したため鎮圧に時間がかかり参戦に遅刻をしてしまいました。

 

利休は病気を理由に箱根湯本で療養中、参戦の遅刻の謝罪に秀吉に会うその前に利休の茶の湯をいただきながらお話をする。

 

このお話の内容は数々の資料から想像するに秀吉打倒の談判、しかしその前に秀吉によって箱根の底倉という地に幽閉されてしまいました。

 

伊達政宗と利休との間で秀吉への謀反のような内容の手紙が秀吉に伝わったかもしれません。

そうなると利休は明智光秀のような死を感じたに違いありません。

 

小田原征伐で頻繁に行われているお茶会には徳川家康、織田信雄、細川忠興、上杉 景勝(うえすぎ かげかつ)等が出入りしてますが、秀吉の出入りはなかったようです。

利休が韮山の竹で作った竹一重切花入『園城寺』は小庵へ、二重口花入れ『よなが』、尺八花入れは談合の結果、誰にどれを渡すかという暗号だったのかも知れません。

 

利休は小田原征伐の1年前、伴天連追放令の2年後に妻宗恩とともに生前葬を行い、すべての財産は本妻宝心妙樹との子であるジョウアン、別名道安に渡す。大徳寺聚光院に米10石を寄付するという遺言も書かれています。

 

生前葬を行う1~2年前に台子点前を完成させて数人に秘伝として伝えています。

細川忠興もその一人で、それ以外の人は、豊臣秀次は切腹、豊臣秀長、レオン蒲生氏郷は毒殺、高山右近は日本国追放、柴山監物は行方不明になっていて台子点前の禁中茶会に出席したメンバーです。

 

台子点前での飾り火箸は勝手側が陰の女性、客付き側が用の男性。そして男女の前には差通しの柄杓である十字架。

 

人の魂を扱うため手をついて飾り火箸を十字架の前から抜き陰の勝手付き側に置き前世に戻り、再び十字架の前に戻り結ばれるのです。

 

差通しの柄杓は十字架なので粗相がないように左手をついて扱います。

そして 「父と子と聖霊」 は真之行台子で行われる追柄杓になります。

 

処刑されるため護送され淀の船着き場で古田織部と細川忠興との最後の別れで書いた利休の辞世では

利休めはとかく果報のものぞかし菅丞相になると思へば

 

直訳すると

私、利休めはとにかく果報者であることよ。菅原道真公のようなあら人神になると思えば。

私、利休めはとにかく果報者であることよ。イエスキリストのようになると思えば。

 

これは私感です。 

12の台子点前の流れから、千利休は殉職して神になり、再び妻と巡り合うお点前のように感じます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2024年07月04日

初炭でも水を次ぐのは

1573年にグレゴリウス13世は茶の湯に対して
夜明け前のミサ
茶室でのミサ
非洗礼者の参加を公式に認めています。

キリスタンでの『7』には精霊が宿るといわれています。

キリストの7つの美徳
寛容 慈愛 分別 献身 節制 純潔 勤勉 


利休が奨励した茶事とには
暁の茶事 朝茶事 正午の茶事 夜咄の茶事
不時の茶事 飯後の茶事 跡見の茶事
 

不時の茶事とはあらかじめ決められた茶事ではなく、不意に来訪した客をもてなす茶事のことです。臨時の茶事ともいいます。

飯後の茶事は、食事時を外した茶事のことです。
時外れの茶事ともいい中立なしに、初炭、菓子、濃茶、薄茶とし、軽い点心を出します。決まりがなく変化をつけることができます。


跡見の茶事とは、茶事のあとで、参会できなかった客からリクエストで、その茶事の道具をそのまま使って行います。

朝茶事 夜咄の茶事 暁の茶事


夜咄の茶事 暁の茶事を夜込めともいいます。

朝茶 夜込めは利休が奨励しイエズス会で正式に採用した茶会です。
イエズス会と深く繋がりがある利休の茶の湯に対して、仏教徒からみると敵になります。
なので刺激させないためには朝まだ寝ているときか、夜家族が家にいるときそして夜明け前が時間的に良いのです。

しかし朝早くとか寝静まったころでの茶会は客も眠いためその眠気を消す効果として、待合室での汲み出しをいただく以外に、茶室に入り亭主との挨拶の後に亭主から薄茶が出されます。

 

そのため釜の中の湯が少なくなるので後炭同様に水次で釜の水を補給します。

 

しかし同じ水次でも暁の茶事での水は、残りの炭を炉の灰の中に埋め込み、改めて埋めておいた下火を掘り起こし灰を落として適当な大きさに割り、火を復活させます。

 

復活祭になります。

 

前日に釜を使っているため釜の中の湯は少なくなっています。

釜を水屋へ持って行き濡釜にしておきます。

釜を清め、水こしを通して釜に水を次ぎます。

 

これは洗礼になります。

 

暁の茶事は夜咄の茶事から朝茶事へと移り変わる茶事になり、夜明け前のミサになります。

 

不時の茶事 飯後の茶事 跡見の茶事は決まりがなく亭主の裁量で行えるため、客が疲れていそうでしたら最初に薄茶を差し上げることができます。

 

正午の茶事では汲み出しは出されますが、席入りの後での薄茶は必要ないのでお出ししません。

法定通りに行いますので、茶室でのミサになります。



2024年04月09日

 茶道は村田珠光や竹野紹鷗によって豪華な茶の湯から質素な茶の湯へと変化してきました。
村田珠光は「月も雲間のなきは嫌にて候」といって、完璧さを嫌っています。
しかしそれなのに茶席での料理は三好長慶や織田信長を中心とした人たちによって、豪華な本膳料理が出されていました。

1587年といえば秀吉の伴天連追放令が出された年になります。
大徳寺の和尚古渓宗陳は筑紫に流されることになり、ひそかに送別会が開かれました。
その時のお点前が台子点前です。

利休は若い時から大徳寺の古渓宗陳和尚へ参禅のたびに食した禅僧での夕食、そして精進料理が茶道での懐石料理となり、真之茶事が誕生したんです。

豪華な本膳料理に対して質素な一汁三菜である懐石料理を徹底させたのも利休になります。

千利休こと田中与四郎は三好長慶の実名利長の利と弟の実休の休をもらって23歳のときに大徳寺北派の大林宗套から利休と命名されその3年前に、長慶の妹「稲」を妻にしてます。
しかし信長によって三好家が滅ぼされたことで利休という名が消えて稲に関する情報も歴史から消えてしまいました。

1585年秀吉は関白という位につきました。そのときのお茶会で、利休は正親町天皇に台子による献茶を行っています。
そして利休は、正親町天皇(おおぎまち)から「利休」と改めて言わせ、天皇からいただきそして一日だけの仮の名セント・ルカと名乗って台子によるお茶会、秀吉が一番嫌がっているミサを朝廷の中で行ったんです。

つまり大徳寺の古渓宗陳と利休はイエズス会同士なのです。

古渓宗陳は利休に抛筌斎という号を与えています。

抛というのは抛(ほう)る、捨てるということ筌というのは竹製の漁具のこと、そして家業の魚問屋を捨て、茶の道に専念するという意味です。

 

その古渓宗陳和も大徳寺山門木像事件では同罪とみなされ磔を命じられています。

それに対して利休が切腹を命じられたのは、利休は三好家の一族だからで最後は武士として扱われたんです。

大徳寺聚光院に三好家の墓と並んで利休の墓が立てられています。

 

ところで大徳寺には朝廷と仏教勢力の南派と三好家や南宗寺のようにイエズス会勢力の北派が対立していました。

足利尊氏が北朝の光明天皇を擁立し,後醍醐天皇が吉野に移り南朝を開いき、大徳寺の北派は南朝を指示していました。南朝が負けたため北派は負け組となり、勝ち組である北朝指示の南派から迫害を受け、北派は北朝指示の南派と対抗して隠れキリスタン大名の菩提寺になったんです。

 

ポルトガルを南蛮といい教会を南蛮寺、南方禄はキリストに関する事が書かれていて、それを悟られないように書かれています。
台子そのものが全能の神ディウスを表しているため、分かってしまうと生死にかかわるので証拠を残さないために口頭で認めた一部の弟子に伝えました。なので秘伝になります。

 

豊臣秀次、豊臣秀長、高山右近、細川忠興その他数人は利休から台子点前を伝授されています。

そして秀次は切腹、秀長はおそらく毒殺、右近は日本追放その他数人すべて殺されたか追放されています。

細川忠興を除いて、

その細川忠興は巧妙な駆け引きによって秀吉からの迫害を免れ、利休切腹のときの介錯人を自分の家来から出しています。そして時代は移り細川家から第79代総理大臣細川 護煕 (もりひろ)を輩出してます。

 

1585年秀吉は関白になり

1587年秀吉太政大臣になる 朝廷を味方にする

1587年伴天連追放令

1591年2月15日、台子を伝授され、キリスタンの理解者であった秀長が病死(毒殺)

1591年4月21日、千利休切腹

 

もし秀長が生きていたら切腹は免れたでしょう。

利休と同罪の古渓宗陳ら3人は磔の軽から免れています。

千利休も切腹を免れた可能性が非常に高かかったと思います。

切腹をあえて受け入れたとしたら死を前にしての落ち着きが理解できます。

 

利休めは とかく果報の ものぞかし 菅丞相に なると思へば

私、利休めはつくづく果報者である、菅原道真公のようなあらひと神になると思いば

私感です。

真之真台子の点前から亡き妻を忍ぶ様子がお道具の設えと帛紗の扱い方から感じられます。(たぶん私だけだと思いますが)

真之真台子での帛紗の扱い方は真之行台子以下のお点前とは違います。

 

切腹のため大阪から京都の淀まで籠で護送され、淀の船着き場で見送りに来たのが古田織部と細川忠興でそこで最後の別れをしたのでしょう。

思いやれ 都を出でて 今夜しも

淀の渡りの 月の船路を

 

千利休が、自から茶杓を削り、最後の茶会に用い、古田織部に与えた茶杓「泪」に、長方形の窓をあけた筒をつくり、その窓を通してこの茶杓を位牌代わりに拝んだと伝えられます。

筒は総黒漆塗でキリスタンを思わせこれを垂直に立てると位牌に見えます。

 

●利休切腹の原因については、大徳寺山門に掲げた利休木像の件が一般的に知られますが、秀吉の本心は利休と利休を慕う武将たちそしてその背後に潜むイエズス会という巨大な力を恐れていたからで、それゆえにキリスタンとは対照的な朝廷の力にこだわったのでしょう。

 

利休切腹の4日前の利休最後の茶会に、ただ1人招いた客が徳川家康でした。
その時使用された茶杓が「泪」であり、その後古田織部に遺贈されてます。
徳川家康の茶の湯の師匠は古田織部ですがその徳川に切腹させられました。


2024年03月29日

炉の唐物点 なぜ茶筅は炉の柄杓側に置くの?

相伝である唐物点と盆点
唐物点は行台子の割り稽古
盆点は真之行台子の割り稽古になります。

そして台天目点や和巾点で、これを四ケ伝といいます。
共通しているのは
唐金の建水を使います。
唐金が陰でその上に置かれる柄杓は陽なので、陰陽のバランスが取れています。

唐物点、台天目点そして盆点では曲げの水差しを水で濡らして使います。
これはキリストの洗礼を表していると考えられます。

では和巾点ではなぜ曲げの水差しを使わないのでしょうか。

それは和巾点の対象は1865年、玄々斎が孝明天皇に献茶したお点前になります。
孝明天皇は外国嫌い、神社にお参りに行った際、『神風よ吹け、外国勢を追い払ってくれ』と祈願しています。

 

神風という言葉を最初に発した人物です。
なので和巾点のお点前は100% 『和』で行われています。
だから洗礼と結びつく曲げの水差しを水で濡らしてから使うのを避けています。。


国焼きの水差しに塗蓋、これは応仁の乱の最中に朝廷からいただいた水差しの蓋を割ってしまったため、真塗の蓋を使ったといわれています。
そして蓋の二引きは足利家の旗印であるため、孝明天皇は喜びます。

利休は二引きではなく三引きです。
三引きとは父と子と精霊の三と思います。

又はアメノミナカヌシ、タカミムスヒ、カムムスヒも造化三神にもなりますが、当時の千利休のキリスタンへの信奉から見ると父と子と精霊の三の方が強く感じられます。

炉では唐物点、盆点、行之行台子は柄杓は炉淵の横に置きます。

茶筅は炉淵の横で畳五目の谷間に置きます。
五目は陰、谷間も陰で陰と陰

柄杓は陽で茶筅も陽
ここでも陽と陽

二つの陰と二つの陽で四になります。

 

四は十字架の神聖な十文字を表しています。

キリストの副音書は四つから構成されています。

マタイ

マルコ

ルカ

ヨハネ

 

そしてキリストの処刑が西暦30年4月7日 金曜日

茶道ではまだ炉の季節です。

なので茶筅は炉縁の方に置かれます。

 

和巾点では炉縁の方に置かないということは、そのことを意識しているからでしょう。

 

では台天目点はどうなのでしょうか、

台天目点は唐物点や盆点の唐物茶入とは違って和物茶入になります。

台子12段でも和物茶入が置かれると、唐物茶入が置かれているお点前とはかなり違ってきます。

 

人の気持ちはその時によって変わるものです。

だからこそこの人はこうだと決めつけないのが『和』になります。

割り切れない相手に対してその割り切れないことを認めることが『和の力』なのです。

 

それに対して唐物での台子お点前は神様への献茶を意味しているのです。

その証拠に真之茶事では利休像を置きます。

利休像すなわち神です。

だから厳粛なお点前になるんです。

 

台子は臼子と書きディウスと呼ばれていました。

全能の神ディウスからきているため、秀吉は台子でのお点前を禁止しています。

それにもかかわらず千利休は禁中茶会で『セント・ルカ』という名をイエズス会からいただいて、台子でのお点前を行っています。

 

秀吉の前でミサを行ったんです。

千利休が切腹させられた本当の理由はそこにあるのかもしれません。

このころになると千利休は大徳寺にある前の家に引っ越しています。

大徳寺聚光院は三好家と千家の墓があります。

 

利休の名は三好長慶の利長と実利から名をいただき利休になっていて、長慶の妹 稲と結婚をしているため、三好家の一族でもあります。

だから武士であり、武器商人そして茶を通してキリスタン大名を統率している参謀なので、最後は名誉ある切腹に処せられたんです。

 

これは私感です。台子12段の流れから、利休は亡き前妻である稲を心の支えとしていました。しかし大大名である長慶の妹としては、お茶を点てている夫をあまりよく思っていませんでした。

だから武士らしく見事な切腹をして、自分を陰で支えてくれた妻のところへ行きたかったのかもしれません。

 

古事記では冬にイザナギが亡き妻イザナミを恋しく思い黄泉の国へ会いに行きました。

台子12段では冬の台子手前では死後の世界を表しています。

 

台子は秘伝です。

台子でのお点前は当時秀吉によって禁止されました。

だから台子点前は危険だったからです。

だから一部の人にしか分からないようになっているため秘伝なのです。。

 

極めつけは、利休と後妻宗恩が生前葬を行ったことで12段は完成したのでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2024年03月14日

夜入め

キリスト教は三好長慶や織田信長公認の布教活動であっても、当時の庶民から見ると
侵入者であり、仏教徒から見れば自分たちの生活を脅かす侵略者に見えたに違いありません。

キリスタンノ布教はあまり目立つと危険なので目立たないような活動をしました。
そこで利休の提案した朝茶や夜込めがローマ教皇によって承認されたんです。


夜込めとは 暗いうちに炭を1又は2本おこし、庭に水を打ち、灯籠に明かりを灯します。
利休の時代では冬至では朝の4時頃から 夏至では朝の2時頃からお茶会を始めました。

これを暁の茶事といいます。
前座は夜咄風に、後座は朝茶事風の形式で行います。
この時代では冬至では朝の4時頃から、夏至では深夜2時頃から行われていたそうです。

現代の人とは時間の感覚が違っていますが、それでも人目につかないようにこの時間帯で夜陰の中で行われたのです。
現在ではそのような心配はないので、朝の5時頃から行われています。

夜込めでは、
前日消した灯籠に火を入れます。
灯籠といえば写真で見ましたが南宗寺の灯籠にはマリア像が彫られています。
これをキリスタン灯籠と呼びます。

灯籠は十字架やキリスタンを表しているんです。
夜込めでは茶室に入った客に対して前茶を出します。
そのため初炭では釜の湯を補充するために水次をしますが、本来の薬缶を持ち出して釜へ水を注ぎません。
濡れ釜にします。

濡釜とは

水屋へ釜を持って行き、水皿の上にすじ違いに置いてある釜据えの上に置く、
釜の蓋をしたまま水こしを通して水をかける、
釜の蓋を布巾で清める、、
台にあずける、
釜の湯をあける、
水こしを通して釜に水をさす、
水屋雑巾の上に釜をのせる、
釜の底の水を充分に拭き取る。

私個人としては濡釜とは洗礼になると思います。

半田は、はじめ和泉半田村から焼き出したので半田と言われるようにました。
巴半田は素焼のもので、その中に乾いた灰を入れます。

底取で巴状を描くので巴半田と言われます。

 

巴というのは水の卦で、火が乗るところに水の卦を描き、水の陰と火の陽で火の勢いをコントロールします。
暁の茶事での初炭手前では長火箸、底取りと巴半田を使い火が生まれ変わるのです。

 

そしてお菓子をいただくころには突き上げ窓(窓)を開けて朝の光が部屋に入り、巻いてある掛物を亭主が正客に掛けるように所望します。

 

掛け軸に朝日がさしていく様子はイエスキリストの復活を感じさせられます。

宗嘉流では暁の茶事は復活祭になります。

それは暁の茶事を通してあなた自身の復活祭になるんです。

 

暁の茶事では魂の復活を見てきた私には、その様な気持ちで亭主を務めさせていただきます。

 

1573年9月8日グレゴリウス13世により、『茶室でのミサ』 『非洗礼者の参加』 『夜明け前のミサ』が承認されました。

そして『夜明け前のミサ』が暁の茶事であると私は解釈しています。

 

 

 

 

2024年02月23日

同じ禁中茶会でも内容は利休と玄々斎とは真逆その真相は

禿ネズミ、猿と言われた無教養の秀吉にとつて利休はその穴埋めをしてくれる存在であり、
人間関係においても利休にはかなわず、大規模になった秀吉軍を裏で支えていた人物となります。


しかし大阪城内では利休を中心としたキリスタンの勢いが強くなってきたため、暗殺される恐れを感じた秀吉は、朝廷を味方につけて、関白になれば恐れおののいて敵対しなくなると思い、関白近衛前久(さきひさ)の養子となって1585年に関白秀吉になりました。


そして関白就任後3ケ月後の1585年11月28日に禁中茶会が開かれました。
これによって秀吉は、利休とその背後にあるキリスタンの脅威に立ち向かう力を得たと喜んだことでしょう。



秀吉が一番キリスタンを嫌がったのは一夫一妻制で妾を持つことが許されなかったこと、そしてローマ法王という巨大な力が邪魔になったんです。

 

そもそもキリスタンが大阪城内で拡大していくきっかけは、小牧・長久手の戦いで大阪城ががら空きになりそのスキに広がり始めました。


1585年11月28日に禁中茶会が利休による台子点前で行われました。
台子は当時全能の神ディウスを大臼(だいはく)と呼んでいました。
そして黒の真塗の台子を全能の神ディウスと見立ててていたため、秀吉は台子を禁止していたのですが、その台子でお点前をして濃茶の回し飲みをしたのです。


回し飲みはイエスキリストの最後の晩餐です。
キリスタンを嫌う秀吉の前で朝廷の面前で禁中にキリスタンを持ち込んだんです。

禁中茶会の出席者の中に、キリスタン大名であるレオン浦生、ジュスト高山やキリスタンに理解を示す豊臣秀次がいました。



後に関白秀吉によって
レオン浦生は毒殺(毒殺説が有力)
ジュスト高山は国外追放
豊臣秀次は切腹させられています。

その他のキリシタン大名2名はそのご行方不明になりました。
禁中茶会に参加したアンチキリスタンである細川忠興ただ一人だけが無事でした。

 

1591年2月13日利休は、堺の自宅を閉門の上一室に謹慎させられました。

同年2月28日京に呼び戻されたうえで切腹しました。

その間3000人の兵隊に囲まれてまるで戒厳令のようです。

 

 

豊臣秀長の死亡は1591年2月15日死因は病死。死後間を置かず同年2月28日に利休が切腹してます。
もし秀長が生きていたら利休の切腹は起こらなかったでしょう。
キリスタンに理解あるものが消されたという風にしか見えません。
私個人としては秀長は病死ではなく毒殺の可能性が感じられます。独裁者は合理的に邪魔なものを排除しますから。


そして利休切腹により以後禁中茶会は行われなくなりましたが、それを復活させたのが11代玄々斎で1865年、孝明天皇に献茶をしました。
この献茶が和巾点の原型になります。しかしこの和巾点も台子12段の和もの茶入を使ったお点前を応用しています。

しかも孝明天皇は外国嫌いなので台子は使っていません。お点前はすべて和で統一され、このお点前からは四ケ伝でありながら外国のお道具は使われていません。


2024年02月13日

千利休は起業家で武士で茶人その利休が心から愛した人は

織田信長が天下を取るその前に実は三好長慶が天下を納めていました。
長慶の実名は長利  弟は実休 この2文字をいただいて利休という名になりました。

なぜ利休が天下人である三好長慶と親しくなれたかについてはここでは省略します。

長慶には3人の妹がいてそのなかの腹違いの妹、宝心妙樹と利休は結婚をしました。
利休20歳 妻宝心妙樹15歳

利休は商人の子とはいえ貧乏でしたが突然出世をして、天下人の妹と結婚をして裕福になったんです。

村田珠光や竹野紹鷗そして千利休は茶人ですが、もう一つの顔はやはり起業家です。

応仁の乱で革職人であった竹野紹鴎の祖父は甲冑や鞍などに使う革製品の販売によってのし上がりました。

その紹鴎の弟子のひとりに田中与四郎がいました。
田中与四郎とは利休のことです。

田中与四郎の祖父田中ちあみは8代将軍足利義政の茶同朋でした

8代将軍足利義政は後に隠居のために建てられた京都東山の御所で、足利義満から義則の雑華印のある画家18点など収集され、茶道具なども含め後に東山ご物と称されています。

さて利休と三好家とは義兄弟になり田中宗易こと利休は異例の出世をしています。

利休のバックには三好長慶がいて その三好長慶のバックにはイエズス会が控えていました。

ですから3宗匠といわれる 田中宗易 津田宗及 紹鴎の娘婿である今井宗久は紹鴎のでしでありイエズス会とも深くつながっています。
イエズス会と深くつながることで火薬や鉄砲を手に入れることができました。

宝心妙樹は精神を患っていましたが、その宝心妙樹の力が非常に大きかったのです。

利休が起業家としての才覚を発揮できたのも、起業を発展させる傍ら茶道にも専念できたその影に、妻宝心妙樹の存在があるのです。

ところが結婚生活20年目にして三好実休、長慶な亡くなり、三好家は滅亡へと向かいました。
そうなると宝心妙樹の存在が邪魔になってしまうため、以後は三好家との関係や妻に関しては封印したのです。

妻宝心妙樹を亡くして翌年利休は宗恩と結婚をしている。
宗恩の連れ子に小庵がいます。

利休は起業家であり武士なので秀吉の逆鱗に触れ切腹させられました。
商人なら切腹はあり得ないのです。
利休は三好家の一員になりそのため武士という身分になっていました。

文献では先妻の宝心妙樹は精神がやんでいたため別居していたという説が有力です。
カトリックなので先妻が亡くなってから後妻を迎えたことになりますが、利休の遺言では財産は実の子紹安に託し、小庵には渡してはいません。

私の創造です。

真之真台子では天板の左右に天目台が置かれています。
そして左側の天目台の手前には帛紗を置きます。

左側は陰 右側は陽
先妻は陰 後妻は陽
そうすると左側の天目は宝心妙樹
右側は宗恩

武士の命が刀ならば茶人の命は帛紗
左側の天目の手前に帛紗は命を表している

真之真台子では釜に封印をします。
それは三好家が滅んだことで宝心妙樹を封印してしまった。

しかし心は常に宝心妙樹の方を向いている
そして逃げられたはずの切腹を受け入れたことは
亡き妻宝心妙樹のいるところへ行きたかった。

真之真台子の次は真行草台子といって黄泉の世界になります。
そして生まれ変わり草之草台子から始まります。

もしかして千利休は自分の運命を悟っていたのかもしれません。

2024年02月09日

杓立のない奥伝

柄杓は陽、柄杓の下にある蓋置は陰になります。

天目を用いる場合は右手に柄杓と蓋置を持ち、左手に建水を持つ形になります。

 

台子12段では杓立を置かない設えがあります。

台子の中で上に伸びているものを置かないということは、草木がまだ成長していない春を表しています。

 

春は草、夏は行、秋は真、そして冬は真行草になります。

 

台子を宇宙とすると草は宇宙の始まりを意味していると思われます。

天地創造期の世界

日本で言えば造化三神である、アメノミナカヌシ、タカミムスヒ、カムムスヒを表しているように感じます。

盆に三を書くだけなので三神を清めているのではないでしょうか。

 

草では天目茶碗を掌に乗せる所作が多く、掌に天目茶碗を乗せて茶を点てるなど厳粛な真の行台子点前とは違って、まるで赤子をいたわるように見えます。

 

台子12段は草から行、行から真へ向かうにつれて神の存在を強く感じてきます。

 

実際に感じます。

見えない世界と繋がってきます。

繋がらないとただ手を動かしているに過ぎないお点前になってしまうんです。

私の真之行台子のお点前を見た人の中から涙ぐむ人がいますが、そういうとき神との繋がりを深く感じます。

 

それに対して大圓之草では神というよりは和の世界を強く感じます。

しかし大圓之草は台子12段からは離れてはいますが奥伝です。

 

それは右手に柄杓と蓋置を持ち、左手に建水を持つ形になるのは、台子12段の草での所作になります。

そして黒の真塗の大圓盆は真台子の代用とも思え、盆の中には唐物茶入と和物茶入が置かれています。

 

ここで興味をひくのは、台子12段といえども和物茶入と唐物茶入とはその扱い方が違うのに対して、

大圓之草ではたとえ和物茶入といえど同じお盆の中に唐物が置かれているため、そうせいや両手扱いになるんです。

 

そして和を強く感じさせられるのは茶杓を清める前のちりうちと、清めた後の帛紗を払う所作です。

 

和独特のお祓いになります。

 

しかしそれをあえてやらない傾向が最近見られます。そのように代わってきたらそれに従いますが、私個人としては帛紗を払う所作を変えてほしくはありません。

 

 

 

 

 

 

2024年02月01日

茶とキリスタン

「棗」は最初は茶入と並んで「濃茶器」として使用されていました。
その場合棗は仕覆を着せています。

茶壷の中には幾種類かの「濃茶の碾茶」が紙袋に入っているのです。
この詰め茶は濃茶の保護と断熱の為にり、
すし漉すことで薄茶として使われます。

この茶壷の中の関係が「濃茶」と「薄茶」となります。
「濃茶器としての茶入」は「挽家」と言うものに入っております。
初期の薄茶はお茶を挽く時に入れる「詰茶入」に入れていたともいわれています。

濃茶は貴族、武家の上流社会で主として用いられることが多く、
楽茶碗は長次郎のころは黒茶碗が多かったのですが黒はキリストの聖職者が身にまとう黒の影響を受けていると考えられます。
そして楽茶碗は濃茶をいただくためのお茶碗です。
薄茶は庶民がいただく侘びたものとして考えられていた。

江戸時代に入り茶道人口も増えだした頃に「小堀遠州」の「中興名物」の勃興にともない、
「棗、塗茶器」の類は「薄茶器」としての役割を担うことになります。

ところで信長の前に20年間天下を納めていた人物がいます。
それは三好長慶(1522-1564)で キリスタン大名を大阪、京都、奈良、堺に置いていた。
つまり日本の中心を納めたら当時は天下人になります。
その背景には鉄砲の力があり、その火薬はポルトガルから仕入れそれを仲介したのがイエズス会です。

三好義継の本名が利長で弟が実休、そこから利休となります。
そして千利休の先妻である法名を「宝心妙樹」という三好義継の妹と結婚したのではと推測できます。
千利休には4人の子供ができて、長男は紹安という名前です。キリスタンを思わせるような名前ですが、後に秀吉のキリスト教弾圧が始まると道安に改名しています。
しかも利休切腹前に遺言で全財産を紹安に託してキリスタン大名の前田家へ、後妻宗恩の連れ後である小庵は蒲生家にかくまわれています。

三好義継の死により、近畿などで強大な勢力を誇った、戦国大名としての三好家は織田信長(1534-1582)によって滅亡しました。
1568年、織田信長は足利義昭とともに上洛を果たします。
信長もまた鉄砲、火薬を用いてます。
つまりイエズス会がバックにいて、西洋の科学や医術など新しい文化を広めていく一方では布教活動と茶の湯を利用しています。
ローマ法王は、「日本のすべてのキリスト教施設の中には茶の湯を飲む場所を設け、住み込みで茶の湯についてのなにがしか心得のある同宿を置かなくてはならない。ことに立派なひとびとが集まるところではそうである」
という指針を設け、日本のキリスト教施設の中に積極的に茶の湯を取り込むよう指示しています。
立派なひとびととは貴族や上級武士をいいます。

信長は永楽通宝を作り 十字を切る読み方にしています。
安土城の上に天守を作ってます。

「利休七哲」は、高山右近、蒲生氏郷、細川三斎、柴山監物、瀬田掃部、牧村兵部、古田織部となっており、すべて武人で大名茶人です。
茶庭などに置かれた灯籠の中には「キリシタン灯籠」と呼ばれ、マリア像に見立てられてキリシタン弾圧後にもひそかに崇拝の対象となっていました。
また茶室の入口である「にじり口」も利休の創作とされていますが、露地の中門も狭い門であり、にじり口は、身を小さく縮めなくては入れないごく狭い入口です。
私は合気道と居合道の修業をしています。そこで槍に見立てた棒や刀をもって躙り口から入ってみたところ問題なく茶室へ入れます。
だから刀や槍を持ち込めないという説にいは無理を感じます。
それよりも「狭い門から入れ」という聖書の言葉に通じるほうが理にかなっています。

 利休以後に始まる濃茶の回しのみは、カトリックのミサで司祭と信徒が一つの聖杯から葡萄酒を共に飲む儀式によく似ており、
茶巾と聖布の扱いも酷似している。
 利休には、高山右近をはじめ蒲生氏郷、瀬田掃部、牧村兵部、黒田如水などのキリシタン大名、あるいは、キリスト教と縁の深いガラシアの夫の細川忠興などや、古田織部などが大勢いた。
1587年、博多にいた秀吉は、突然に禁教令を出し、まず高山右近に使者を送ってキリシタンの棄教を迫ったのですが。
 右近の強い意志を知った秀吉はすぐに陣営にいた右近の茶道の師、千利休が使者に選ばれました。
 四年後に大徳寺山門事件では利休も又秀吉の勘気を蒙りながらも、秀吉に迎合せず、一切の妥協を排したために、切腹を命ぜられ、その首は都の戻橋で晒されたのでした。


茶道の濃茶では一つの茶碗から抹茶をまわし飲みし、ミサではパンとぶどう酒の入った聖杯をまわし飲みします。
利休より前の時代は、濃茶も一服ずつ点てられていました。
キリスト教の聖杯の飲みまわしは、そのルーツをあの「最後の晩餐」に持ちます。
イエスが十字架にはりつけにされる前夜、エルサレムのある二階座敷で、弟子たちとともに記念の晩餐をしました。
キリスト教が普及し始めた頃は仏教寺院を教会堂として使用してます。
茶道の「茶巾」と「聖布」の使い方、特にそのたたみ方が似ています。

茶道の場合は、濃い茶のまわし飲みの後、帰ってきた茶碗にお湯を入れて回してすすぎ、そのお湯を捨ててから茶巾で清めます。
ミサのほうは、聖体拝領が終わった後はパン皿を拭いて、聖杯に水を注いですすぎ、聖布で清めます。

両方ともたたむ動作を見ている人には非常に似ている印象を与えます。
キリシタンでは同信の間柄でなければ結婚できません。
つまり古田織部が高山右近の妹を娶って義兄にあたるというところがキリシタンの教えに従っています。

以上から濃茶はミサの葡萄に代わるため緑のミサともいわれます。
そして濃茶でのミサが終わったころ薄茶が出されてもおかしくないと思います。

また茶事の御座での床の間中央に釘に一輪挿は十字架を表している。
そして茶室には躙り口の狭き門から入ります。

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。 しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」
マタイ福音書7章13節~14節

2024年01月19日

天目台と貴人台の持ち方の違い

天目台は持ち方に陰と陽からなっています。

人差し指・中指・薬指の3本指で陰、

手前の親指と小指の2本指で陽になります。

 

それに対して貴人茶碗はしっかりと茶碗を支えるのが目的です。

 

天目茶碗から仕覆を脱がせた後真之行台子や大圓之真台子では、仕覆を茶碗に着せますが、着せないお点前も2点前あります。となると指を固定させない持ち方が天目台の持ち方になります。

 

貴人茶碗は滑りやすく、そもそも仕覆がないのでしっかりと持つことが必要です。

 

人差し指・中指・薬指の三本は三柱を表しています。

神様は三柱で一組になるからです。

 

三種の神器は八咫鏡(やたのかがみ)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)、八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)

造化三神はあめのみなかぬしのかみ・たかみむすびのかみ・かみむすびのかみ

三貴神 ( さんきしん )にあまてらす、くつよみ、すさのお

茶道の三種の神器は掛け軸、花、香

そして天目台の3本指

 

天目台に茶杓を置く位置は南東です。八卦では巽の位置になります。

巽の向う側は乾になり、この線は注意をしなさいという意味であり、季節の変わり目であり神様の通り道にもなります。

真之行台子の次は真之真台子になります。

真之真台子では茶杓は南北の離坎に向いています。

その一つ手前のお点前なので南東 北西の巽乾に向けてます。

 

天目茶碗は密教で浄化に使われる遮水器から来ています。

遮水器は金属でできているため天目茶碗日はその金属を型取ったふくりんがついています。

 

茶筅通しの3回は密教で言う ウン ラン パンに相当します

 

ところが大圓之真では対象が真之行台子の神ではなく人なので天目台に北に向けて置きます。

 

神ではないから真之茶事では真之真台子で行い、大圓之真では行いません。

真之茶事では千利休の像の前で弟子の許状を披露します。

千利休つまり神に類似する存在だからです。

 

 

 


2024年01月02日