ブログ一覧

炉の唐物点 なぜ茶筅は炉の柄杓側に置くの?

相伝である唐物点と盆点
唐物点は行台子の割り稽古
盆点は真之行台子の割り稽古になります。

そして台天目点や和巾点で、これを四ケ伝といいます。
共通しているのは
唐金の建水を使います。
唐金が陰でその上に置かれる柄杓は陽なので、陰陽のバランスが取れています。

唐物点、台天目点そして盆点では曲げの水差しを水で濡らして使います。
これはキリストの洗礼を表していると考えられます。

では和巾点ではなぜ曲げの水差しを使わないのでしょうか。

それは和巾点の対象は1865年、玄々斎が孝明天皇に献茶したお点前になります。
孝明天皇は外国嫌い、神社にお参りに行った際、『神風よ吹け、外国勢を追い払ってくれ』と祈願しています。

 

神風という言葉を最初に発した人物です。
なので和巾点のお点前は100% 『和』で行われています。
だから洗礼と結びつく曲げの水差しを水で濡らしてから使うのを避けています。。


国焼きの水差しに塗蓋、これは応仁の乱の最中に朝廷からいただいた水差しの蓋を割ってしまったため、真塗の蓋を使ったといわれています。
そして蓋の二引きは足利家の旗印であるため、孝明天皇は喜びます。

利休は二引きではなく三引きです。
三引きとは父と子と精霊の三と思います。

又はアメノミナカヌシ、タカミムスヒ、カムムスヒも造化三神にもなりますが、当時の千利休のキリスタンへの信奉から見ると父と子と精霊の三の方が強く感じられます。

炉では唐物点、盆点、行之行台子は柄杓は炉淵の横に置きます。

茶筅は炉淵の横で畳五目の谷間に置きます。
五目は陰、谷間も陰で陰と陰

柄杓は陽で茶筅も陽
ここでも陽と陽

二つの陰と二つの陽で四になります。

 

四は十字架の神聖な十文字を表しています。

キリストの副音書は四つから構成されています。

マタイ

マルコ

ルカ

ヨハネ

 

そしてキリストの処刑が西暦30年4月7日 金曜日

茶道ではまだ炉の季節です。

なので茶筅は炉縁の方に置かれます。

 

和巾点では炉縁の方に置かないということは、そのことを意識しているからでしょう。

 

では台天目点はどうなのでしょうか、

台天目点は唐物点や盆点の唐物茶入とは違って和物茶入になります。

台子12段でも和物茶入が置かれると、唐物茶入が置かれているお点前とはかなり違ってきます。

 

人の気持ちはその時によって変わるものです。

だからこそこの人はこうだと決めつけないのが『和』になります。

割り切れない相手に対してその割り切れないことを認めることが『和の力』なのです。

 

それに対して唐物での台子お点前は神様への献茶を意味しているのです。

その証拠に真之茶事では利休像を置きます。

利休像すなわち神です。

だから厳粛なお点前になるんです。

 

台子は臼子と書きディウスと呼ばれていました。

全能の神ディウスからきているため、秀吉は台子でのお点前を禁止しています。

それにもかかわらず千利休は禁中茶会で『セント・ルカ』という名をイエズス会からいただいて、台子でのお点前を行っています。

 

秀吉の前でミサを行ったんです。

千利休が切腹させられた本当の理由はそこにあるのかもしれません。

このころになると千利休は大徳寺にある前の家に引っ越しています。

大徳寺聚光院は三好家と千家の墓があります。

 

利休の名は三好長慶の利長と実利から名をいただき利休になっていて、長慶の妹 稲と結婚をしているため、三好家の一族でもあります。

だから武士であり、武器商人そして茶を通してキリスタン大名を統率している参謀なので、最後は名誉ある切腹に処せられたんです。

 

これは私感です。台子12段の流れから、利休は亡き前妻である稲を心の支えとしていました。しかし大大名である長慶の妹としては、お茶を点てている夫をあまりよく思っていませんでした。

だから武士らしく見事な切腹をして、自分を陰で支えてくれた妻のところへ行きたかったのかもしれません。

 

古事記では冬にイザナギが亡き妻イザナミを恋しく思い黄泉の国へ会いに行きました。

台子12段では冬の台子手前では死後の世界を表しています。

 

台子は秘伝です。

台子でのお点前は当時秀吉によって禁止されました。

だから台子点前は危険だったからです。

だから一部の人にしか分からないようになっているため秘伝なのです。。

 

極めつけは、利休と後妻宗恩が生前葬を行ったことで12段は完成したのでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2024年03月14日

夜入め

キリスト教は三好長慶や織田信長公認の布教活動であっても、当時の庶民から見ると
侵入者であり、仏教徒から見れば自分たちの生活を脅かす侵略者に見えたに違いありません。

キリスタンノ布教はあまり目立つと危険なので目立たないような活動をしました。
そこで利休の提案した朝茶や夜込めがローマ教皇によって承認されたんです。


夜込めとは 暗いうちに炭を1又は2本おこし、庭に水を打ち、灯籠に明かりを灯します。
利休の時代では冬至では朝の4時頃から 夏至では朝の2時頃からお茶会を始めました。

これを暁の茶事といいます。
前座は夜咄風に、後座は朝茶事風の形式で行います。
この時代では冬至では朝の4時頃から、夏至では深夜2時頃から行われていたそうです。

現代の人とは時間の感覚が違っていますが、それでも人目につかないようにこの時間帯で夜陰の中で行われたのです。
現在ではそのような心配はないので、朝の5時頃から行われています。

夜込めでは、
前日消した灯籠に火を入れます。
灯籠といえば写真で見ましたが南宗寺の灯籠にはマリア像が彫られています。
これをキリスタン灯籠と呼びます。

灯籠は十字架やキリスタンを表しているんです。
夜込めでは茶室に入った客に対して前茶を出します。
そのため初炭では釜の湯を補充するために水次をしますが、本来の薬缶を持ち出して釜へ水を注ぎません。
濡れ釜にします。

濡釜とは

水屋へ釜を持って行き、水皿の上にすじ違いに置いてある釜据えの上に置く、
釜の蓋をしたまま水こしを通して水をかける、
釜の蓋を布巾で清める、、
台にあずける、
釜の湯をあける、
水こしを通して釜に水をさす、
水屋雑巾の上に釜をのせる、
釜の底の水を充分に拭き取る。

私個人としては濡釜とは洗礼になると思います。

半田は、はじめ和泉半田村から焼き出したので半田と言われるようにました。
巴半田は素焼のもので、その中に乾いた灰を入れます。

底取で巴状を描くので巴半田と言われます。

 

巴というのは水の卦で、火が乗るところに水の卦を描き、水の陰と火の陽で火の勢いをコントロールします。
暁の茶事での初炭手前では長火箸、底取りと巴半田を使い火が生まれ変わるのです。

 

そしてお菓子をいただくころには突き上げ窓(窓)を開けて朝の光が部屋に入り、巻いてある掛物を亭主が正客に掛けるように所望します。

 

掛け軸に朝日がさしていく様子はイエスキリストの復活を感じさせられます。

宗嘉流では暁の茶事は復活祭になります。

それは暁の茶事を通してあなた自身の復活祭になるんです。

 

暁の茶事では魂の復活を見てきた私には、その様な気持ちで亭主を務めさせていただきます。

 

1573年9月8日グレゴリウス13世により、『茶室でのミサ』 『非洗礼者の参加』 『夜明け前のミサ』が承認されました。

そして『夜明け前のミサ』が暁の茶事であると私は解釈しています。

 

 

 

 

2024年02月23日

同じ禁中茶会でも内容は利休と玄々斎とは真逆その真相は

禿ネズミ、猿と言われた無教養の秀吉にとつて利休はその穴埋めをしてくれる存在であり、
人間関係においても利休にはかなわず、大規模になった秀吉軍を裏で支えていた人物となります。


しかし大阪城内では利休を中心としたキリスタンの勢いが強くなってきたため、暗殺される恐れを感じた秀吉は、朝廷を味方につけて、関白になれば恐れおののいて敵対しなくなると思い、関白近衛前久(さきひさ)の養子となって1585年に関白秀吉になりました。


そして関白就任後3ケ月後の1585年11月28日に禁中茶会が開かれました。
これによって秀吉は、利休とその背後にあるキリスタンの脅威に立ち向かう力を得たと喜んだことでしょう。



秀吉が一番キリスタンを嫌がったのは一夫一妻制で妾を持つことが許されなかったこと、そしてローマ法王という巨大な力が邪魔になったんです。

 

そもそもキリスタンが大阪城内で拡大していくきっかけは、小牧・長久手の戦いで大阪城ががら空きになりそのスキに広がり始めました。


1585年11月28日に禁中茶会が利休による台子点前で行われました。
台子は当時全能の神ディウスを大臼(だいはく)と呼んでいました。
そして黒の真塗の台子を全能の神ディウスと見立ててていたため、秀吉は台子を禁止していたのですが、その台子でお点前をして濃茶の回し飲みをしたのです。


回し飲みはイエスキリストの最後の晩餐です。
キリスタンを嫌う秀吉の前で朝廷の面前で禁中にキリスタンを持ち込んだんです。

禁中茶会の出席者の中に、キリスタン大名であるレオン浦生、ジュスト高山やキリスタンに理解を示す豊臣秀次がいました。



後に関白秀吉によって
レオン浦生は毒殺(毒殺説が有力)
ジュスト高山は国外追放
豊臣秀次は切腹させられています。

その他のキリシタン大名2名はそのご行方不明になりました。
禁中茶会に参加したアンチキリスタンである細川忠興ただ一人だけが無事でした。

 

1591年2月13日利休は、堺の自宅を閉門の上一室に謹慎させられました。

同年2月28日京に呼び戻されたうえで切腹しました。

その間3000人の兵隊に囲まれてまるで戒厳令のようです。

 

 

豊臣秀長の死亡は1591年2月15日死因は病死。死後間を置かず同年2月28日に利休が切腹してます。
もし秀長が生きていたら利休の切腹は起こらなかったでしょう。
キリスタンに理解あるものが消されたという風にしか見えません。
私個人としては秀長は病死ではなく毒殺の可能性が感じられます。独裁者は合理的に邪魔なものを排除しますから。


そして利休切腹により以後禁中茶会は行われなくなりましたが、それを復活させたのが11代玄々斎で1865年、孝明天皇に献茶をしました。
この献茶が和巾点の原型になります。しかしこの和巾点も台子12段の和もの茶入を使ったお点前を応用しています。

しかも孝明天皇は外国嫌いなので台子は使っていません。お点前はすべて和で統一され、このお点前からは四ケ伝でありながら外国のお道具は使われていません。


2024年02月13日

千利休は起業家で武士で茶人その利休が心から愛した人は

織田信長が天下を取るその前に実は三好長慶が天下を納めていました。
長慶の実名は長利  弟は実休 この2文字をいただいて利休という名になりました。

なぜ利休が天下人である三好長慶と親しくなれたかについてはここでは省略します。

長慶には3人の妹がいてそのなかの腹違いの妹、宝心妙樹と利休は結婚をしました。
利休20歳 妻宝心妙樹15歳

利休は商人の子とはいえ貧乏でしたが突然出世をして、天下人の妹と結婚をして裕福になったんです。

村田珠光や竹野紹鷗そして千利休は茶人ですが、もう一つの顔はやはり起業家です。

応仁の乱で革職人であった竹野紹鴎の祖父は甲冑や鞍などに使う革製品の販売によってのし上がりました。

その紹鴎の弟子のひとりに田中与四郎がいました。
田中与四郎とは利休のことです。

田中与四郎の祖父田中ちあみは8代将軍足利義政の茶同朋でした

8代将軍足利義政は後に隠居のために建てられた京都東山の御所で、足利義満から義則の雑華印のある画家18点など収集され、茶道具なども含め後に東山ご物と称されています。

さて利休と三好家とは義兄弟になり田中宗易こと利休は異例の出世をしています。

利休のバックには三好長慶がいて その三好長慶のバックにはイエズス会が控えていました。

ですから3宗匠といわれる 田中宗易 津田宗及 紹鴎の娘婿である今井宗久は紹鴎のでしでありイエズス会とも深くつながっています。
イエズス会と深くつながることで火薬や鉄砲を手に入れることができました。

宝心妙樹は精神を患っていましたが、その宝心妙樹の力が非常に大きかったのです。

利休が起業家としての才覚を発揮できたのも、起業を発展させる傍ら茶道にも専念できたその影に、妻宝心妙樹の存在があるのです。

ところが結婚生活20年目にして三好実休、長慶な亡くなり、三好家は滅亡へと向かいました。
そうなると宝心妙樹の存在が邪魔になってしまうため、以後は三好家との関係や妻に関しては封印したのです。

妻宝心妙樹を亡くして翌年利休は宗恩と結婚をしている。
宗恩の連れ子に小庵がいます。

利休は起業家であり武士なので秀吉の逆鱗に触れ切腹させられました。
商人なら切腹はあり得ないのです。
利休は三好家の一員になりそのため武士という身分になっていました。

文献では先妻の宝心妙樹は精神がやんでいたため別居していたという説が有力です。
カトリックなので先妻が亡くなってから後妻を迎えたことになりますが、利休の遺言では財産は実の子紹安に託し、小庵には渡してはいません。

私の創造です。

真之真台子では天板の左右に天目台が置かれています。
そして左側の天目台の手前には帛紗を置きます。

左側は陰 右側は陽
先妻は陰 後妻は陽
そうすると左側の天目は宝心妙樹
右側は宗恩

武士の命が刀ならば茶人の命は帛紗
左側の天目の手前に帛紗は命を表している

真之真台子では釜に封印をします。
それは三好家が滅んだことで宝心妙樹を封印してしまった。

しかし心は常に宝心妙樹の方を向いている
そして逃げられたはずの切腹を受け入れたことは
亡き妻宝心妙樹のいるところへ行きたかった。

真之真台子の次は真行草台子といって黄泉の世界になります。
そして生まれ変わり草之草台子から始まります。

もしかして千利休は自分の運命を悟っていたのかもしれません。

2024年02月09日

杓立のない奥伝

柄杓は陽、柄杓の下にある蓋置は陰になります。

天目を用いる場合は右手に柄杓と蓋置を持ち、左手に建水を持つ形になります。

 

台子12段では杓立を置かない設えがあります。

台子の中で上に伸びているものを置かないということは、草木がまだ成長していない春を表しています。

 

春は草、夏は行、秋は真、そして冬は真行草になります。

 

台子を宇宙とすると草は宇宙の始まりを意味していると思われます。

天地創造期の世界

日本で言えば造化三神である、アメノミナカヌシ、タカミムスヒ、カムムスヒを表しているように感じます。

盆に三を書くだけなので三神を清めているのではないでしょうか。

 

草では天目茶碗を掌に乗せる所作が多く、掌に天目茶碗を乗せて茶を点てるなど厳粛な真の行台子点前とは違って、まるで赤子をいたわるように見えます。

 

台子12段は草から行、行から真へ向かうにつれて神の存在を強く感じてきます。

 

実際に感じます。

見えない世界と繋がってきます。

繋がらないとただ手を動かしているに過ぎないお点前になってしまうんです。

私の真之行台子のお点前を見た人の中から涙ぐむ人がいますが、そういうとき神との繋がりを深く感じます。

 

それに対して大圓之草では神というよりは和の世界を強く感じます。

しかし大圓之草は台子12段からは離れてはいますが奥伝です。

 

それは右手に柄杓と蓋置を持ち、左手に建水を持つ形になるのは、台子12段の草での所作になります。

そして黒の真塗の大圓盆は真台子の代用とも思え、盆の中には唐物茶入と和物茶入が置かれています。

 

ここで興味をひくのは、台子12段といえども和物茶入と唐物茶入とはその扱い方が違うのに対して、

大圓之草ではたとえ和物茶入といえど同じお盆の中に唐物が置かれているため、そうせいや両手扱いになるんです。

 

そして和を強く感じさせられるのは茶杓を清める前のちりうちと、清めた後の帛紗を払う所作です。

 

和独特のお祓いになります。

 

しかしそれをあえてやらない傾向が最近見られます。そのように代わってきたらそれに従いますが、私個人としては帛紗を払う所作を変えてほしくはありません。

 

 

 

 

 

 

2024年02月01日

茶とキリスタン

「棗」は最初は茶入と並んで「濃茶器」として使用されていました。
その場合棗は仕覆を着せています。

茶壷の中には幾種類かの「濃茶の碾茶」が紙袋に入っているのです。
この詰め茶は濃茶の保護と断熱の為にり、
すし漉すことで薄茶として使われます。

この茶壷の中の関係が「濃茶」と「薄茶」となります。
「濃茶器としての茶入」は「挽家」と言うものに入っております。
初期の薄茶はお茶を挽く時に入れる「詰茶入」に入れていたともいわれています。

濃茶は貴族、武家の上流社会で主として用いられることが多く、
楽茶碗は長次郎のころは黒茶碗が多かったのですが黒はキリストの聖職者が身にまとう黒の影響を受けていると考えられます。
そして楽茶碗は濃茶をいただくためのお茶碗です。
薄茶は庶民がいただく侘びたものとして考えられていた。

江戸時代に入り茶道人口も増えだした頃に「小堀遠州」の「中興名物」の勃興にともない、
「棗、塗茶器」の類は「薄茶器」としての役割を担うことになります。

ところで信長の前に20年間天下を納めていた人物がいます。
それは三好長慶(1522-1564)で キリスタン大名を大阪、京都、奈良、堺に置いていた。
つまり日本の中心を納めたら当時は天下人になります。
その背景には鉄砲の力があり、その火薬はポルトガルから仕入れそれを仲介したのがイエズス会です。

三好義継の本名が利長で弟が実休、そこから利休となります。
そして千利休の先妻である法名を「宝心妙樹」という三好義継の妹と結婚したのではと推測できます。
千利休には4人の子供ができて、長男は紹安という名前です。キリスタンを思わせるような名前ですが、後に秀吉のキリスト教弾圧が始まると道安に改名しています。
しかも利休切腹前に遺言で全財産を紹安に託してキリスタン大名の前田家へ、後妻宗恩の連れ後である小庵は蒲生家にかくまわれています。

三好義継の死により、近畿などで強大な勢力を誇った、戦国大名としての三好家は織田信長(1534-1582)によって滅亡しました。
1568年、織田信長は足利義昭とともに上洛を果たします。
信長もまた鉄砲、火薬を用いてます。
つまりイエズス会がバックにいて、西洋の科学や医術など新しい文化を広めていく一方では布教活動と茶の湯を利用しています。
ローマ法王は、「日本のすべてのキリスト教施設の中には茶の湯を飲む場所を設け、住み込みで茶の湯についてのなにがしか心得のある同宿を置かなくてはならない。ことに立派なひとびとが集まるところではそうである」
という指針を設け、日本のキリスト教施設の中に積極的に茶の湯を取り込むよう指示しています。
立派なひとびととは貴族や上級武士をいいます。

信長は永楽通宝を作り 十字を切る読み方にしています。
安土城の上に天守を作ってます。

「利休七哲」は、高山右近、蒲生氏郷、細川三斎、柴山監物、瀬田掃部、牧村兵部、古田織部となっており、すべて武人で大名茶人です。
茶庭などに置かれた灯籠の中には「キリシタン灯籠」と呼ばれ、マリア像に見立てられてキリシタン弾圧後にもひそかに崇拝の対象となっていました。
また茶室の入口である「にじり口」も利休の創作とされていますが、露地の中門も狭い門であり、にじり口は、身を小さく縮めなくては入れないごく狭い入口です。
私は合気道と居合道の修業をしています。そこで槍に見立てた棒や刀をもって躙り口から入ってみたところ問題なく茶室へ入れます。
だから刀や槍を持ち込めないという説にいは無理を感じます。
それよりも「狭い門から入れ」という聖書の言葉に通じるほうが理にかなっています。

 利休以後に始まる濃茶の回しのみは、カトリックのミサで司祭と信徒が一つの聖杯から葡萄酒を共に飲む儀式によく似ており、
茶巾と聖布の扱いも酷似している。
 利休には、高山右近をはじめ蒲生氏郷、瀬田掃部、牧村兵部、黒田如水などのキリシタン大名、あるいは、キリスト教と縁の深いガラシアの夫の細川忠興などや、古田織部などが大勢いた。
1587年、博多にいた秀吉は、突然に禁教令を出し、まず高山右近に使者を送ってキリシタンの棄教を迫ったのですが。
 右近の強い意志を知った秀吉はすぐに陣営にいた右近の茶道の師、千利休が使者に選ばれました。
 四年後に大徳寺山門事件では利休も又秀吉の勘気を蒙りながらも、秀吉に迎合せず、一切の妥協を排したために、切腹を命ぜられ、その首は都の戻橋で晒されたのでした。


茶道の濃茶では一つの茶碗から抹茶をまわし飲みし、ミサではパンとぶどう酒の入った聖杯をまわし飲みします。
利休より前の時代は、濃茶も一服ずつ点てられていました。
キリスト教の聖杯の飲みまわしは、そのルーツをあの「最後の晩餐」に持ちます。
イエスが十字架にはりつけにされる前夜、エルサレムのある二階座敷で、弟子たちとともに記念の晩餐をしました。
キリスト教が普及し始めた頃は仏教寺院を教会堂として使用してます。
茶道の「茶巾」と「聖布」の使い方、特にそのたたみ方が似ています。

茶道の場合は、濃い茶のまわし飲みの後、帰ってきた茶碗にお湯を入れて回してすすぎ、そのお湯を捨ててから茶巾で清めます。
ミサのほうは、聖体拝領が終わった後はパン皿を拭いて、聖杯に水を注いですすぎ、聖布で清めます。

両方ともたたむ動作を見ている人には非常に似ている印象を与えます。
キリシタンでは同信の間柄でなければ結婚できません。
つまり古田織部が高山右近の妹を娶って義兄にあたるというところがキリシタンの教えに従っています。

以上から濃茶はミサの葡萄に代わるため緑のミサともいわれます。
そして濃茶でのミサが終わったころ薄茶が出されてもおかしくないと思います。

また茶事の御座での床の間中央に釘に一輪挿は十字架を表している。
そして茶室には躙り口の狭き門から入ります。

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。 しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」
マタイ福音書7章13節~14節

2024年01月19日

天目台と貴人台の持ち方の違い

天目台は持ち方に陰と陽からなっています。

人差し指・中指・薬指の3本指で陰、

手前の親指と小指の2本指で陽になります。

 

それに対して貴人茶碗はしっかりと茶碗を支えるのが目的です。

 

天目茶碗から仕覆を脱がせた後真之行台子や大圓之真台子では、仕覆を茶碗に着せますが、着せないお点前も2点前あります。となると指を固定させない持ち方が天目台の持ち方になります。

 

貴人茶碗は滑りやすく、そもそも仕覆がないのでしっかりと持つことが必要です。

 

人差し指・中指・薬指の三本は三柱を表しています。

神様は三柱で一組になるからです。

 

三種の神器は八咫鏡(やたのかがみ)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)、八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)

造化三神はあめのみなかぬしのかみ・たかみむすびのかみ・かみむすびのかみ

三貴神 ( さんきしん )にあまてらす、くつよみ、すさのお

茶道の三種の神器は掛け軸、花、香

そして天目台の3本指

 

天目台に茶杓を置く位置は南東です。八卦では巽の位置になります。

巽の向う側は乾になり、この線は注意をしなさいという意味であり、季節の変わり目であり神様の通り道にもなります。

真之行台子の次は真之真台子になります。

真之真台子では茶杓は南北の離坎に向いています。

その一つ手前のお点前なので南東 北西の巽乾に向けてます。

 

天目茶碗は密教で浄化に使われる遮水器から来ています。

遮水器は金属でできているため天目茶碗日はその金属を型取ったふくりんがついています。

 

茶筅通しの3回は密教で言う ウン ラン パンに相当します

 

ところが大圓之真では対象が真之行台子の神ではなく人なので天目台に北に向けて置きます。

 

神ではないから真之茶事では真之真台子で行い、大圓之真では行いません。

真之茶事では千利休の像の前で弟子の許状を披露します。

千利休つまり神に類似する存在だからです。

 

 

 


2024年01月02日