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ビルダーピアノ教室講師のブログです。

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初炭でも水を次ぐのは

1573年にグレゴリウス13世は茶の湯に対して
夜明け前のミサ
茶室でのミサ
非洗礼者の参加を公式に認めています。

キリスタンでの『7』には精霊が宿るといわれています。

キリストの7つの美徳
寛容 慈愛 分別 献身 節制 純潔 勤勉 


利休が奨励した茶事とには
暁の茶事 朝茶事 正午の茶事 夜咄の茶事
不時の茶事 飯後の茶事 跡見の茶事
 

不時の茶事とはあらかじめ決められた茶事ではなく、不意に来訪した客をもてなす茶事のことです。臨時の茶事ともいいます。

飯後の茶事は、食事時を外した茶事のことです。
時外れの茶事ともいい中立なしに、初炭、菓子、濃茶、薄茶とし、軽い点心を出します。決まりがなく変化をつけることができます。


跡見の茶事とは、茶事のあとで、参会できなかった客からリクエストで、その茶事の道具をそのまま使って行います。

朝茶事 夜咄の茶事 暁の茶事


夜咄の茶事 暁の茶事を夜込めともいいます。

朝茶 夜込めは利休が奨励しイエズス会で正式に採用した茶会です。
イエズス会と深く繋がりがある利休の茶の湯に対して、仏教徒からみると敵になります。
なので刺激させないためには朝まだ寝ているときか、夜家族が家にいるときそして夜明け前が時間的に良いのです。

しかし朝早くとか寝静まったころでの茶会は客も眠いためその眠気を消す効果として、待合室での汲み出しをいただく以外に、茶室に入り亭主との挨拶の後に亭主から薄茶が出されます。

 

そのため釜の中の湯が少なくなるので後炭同様に水次で釜の水を補給します。

 

しかし同じ水次でも暁の茶事での水は、残りの炭を炉の灰の中に埋め込み、改めて埋めておいた下火を掘り起こし灰を落として適当な大きさに割り、火を復活させます。

 

復活祭になります。

 

前日に釜を使っているため釜の中の湯は少なくなっています。

釜を水屋へ持って行き濡釜にしておきます。

釜を清め、水こしを通して釜に水を次ぎます。

 

これは洗礼になります。

 

暁の茶事は夜咄の茶事から朝茶事へと移り変わる茶事になり、夜明け前のミサになります。

 

不時の茶事 飯後の茶事 跡見の茶事は決まりがなく亭主の裁量で行えるため、客が疲れていそうでしたら最初に薄茶を差し上げることができます。

 

正午の茶事では汲み出しは出されますが、席入りの後での薄茶は必要ないのでお出ししません。

法定通りに行いますので、茶室でのミサになります。



2024年04月09日

 茶道は村田珠光や竹野紹鷗によって豪華な茶の湯から質素な茶の湯へと変化してきました。
村田珠光は「月も雲間のなきは嫌にて候」といって、完璧さを嫌っています。
しかしそれなのに茶席での料理は三好長慶や織田信長を中心とした人たちによって、豪華な本膳料理が出されていました。

1587年といえば秀吉の伴天連追放令が出された年になります。
大徳寺の和尚古渓宗陳は筑紫に流されることになり、ひそかに送別会が開かれました。
その時のお点前が台子点前です。

利休は若い時から大徳寺の古渓宗陳和尚へ参禅のたびに食した禅僧での夕食、そして精進料理が茶道での懐石料理となり、真之茶事が誕生したんです。

豪華な本膳料理に対して質素な一汁三菜である懐石料理を徹底させたのも利休になります。

千利休こと田中与四郎は三好長慶の実名利長の利と弟の実休の休をもらって23歳のときに大徳寺北派の大林宗套から利休と命名されその3年前に、長慶の妹「稲」を妻にしてます。
しかし信長によって三好家が滅ぼされたことで利休という名が消えて稲に関する情報も歴史から消えてしまいました。

1585年秀吉は関白という位につきました。そのときのお茶会で、利休は正親町天皇に台子による献茶を行っています。
そして利休は、正親町天皇(おおぎまち)から「利休」と改めて言わせ、天皇からいただきそして一日だけの仮の名セント・ルカと名乗って台子によるお茶会、秀吉が一番嫌がっているミサを朝廷の中で行ったんです。

つまり大徳寺の古渓宗陳と利休はイエズス会同士なのです。

古渓宗陳は利休に抛筌斎という号を与えています。

抛というのは抛(ほう)る、捨てるということ筌というのは竹製の漁具のこと、そして家業の魚問屋を捨て、茶の道に専念するという意味です。

 

その古渓宗陳和も大徳寺山門木像事件では同罪とみなされ磔を命じられています。

それに対して利休が切腹を命じられたのは、利休は三好家の一族だからで最後は武士として扱われたんです。

大徳寺聚光院に三好家の墓と並んで利休の墓が立てられています。

 

ところで大徳寺には朝廷と仏教勢力の南派と三好家や南宗寺のようにイエズス会勢力の北派が対立していました。

足利尊氏が北朝の光明天皇を擁立し,後醍醐天皇が吉野に移り南朝を開いき、大徳寺の北派は南朝を指示していました。南朝が負けたため北派は負け組となり、勝ち組である北朝指示の南派から迫害を受け、北派は北朝指示の南派と対抗して隠れキリスタン大名の菩提寺になったんです。

 

ポルトガルを南蛮といい教会を南蛮寺、南方禄はキリストに関する事が書かれていて、それを悟られないように書かれています。
台子そのものが全能の神ディウスを表しているため、分かってしまうと生死にかかわるので証拠を残さないために口頭で認めた一部の弟子に伝えました。なので秘伝になります。

 

豊臣秀次、豊臣秀長、高山右近、細川忠興その他数人は利休から台子点前を伝授されています。

そして秀次は切腹、秀長はおそらく毒殺、右近は日本追放その他数人すべて殺されたか追放されています。

細川忠興を除いて、

その細川忠興は巧妙な駆け引きによって秀吉からの迫害を免れ、利休切腹のときの介錯人を自分の家来から出しています。そして時代は移り細川家から第79代総理大臣細川 護煕 (もりひろ)を輩出してます。

 

1585年秀吉は関白になり

1587年秀吉太政大臣になる 朝廷を味方にする

1587年伴天連追放令

1591年2月15日、台子を伝授され、キリスタンの理解者であった秀長が病死(毒殺)

1591年4月21日、千利休切腹

 

もし秀長が生きていたら切腹は免れたでしょう。

利休と同罪の古渓宗陳ら3人は磔の軽から免れています。

千利休も切腹を免れた可能性が非常に高かかったと思います。

切腹をあえて受け入れたとしたら死を前にしての落ち着きが理解できます。

 

利休めは とかく果報の ものぞかし 菅丞相に なると思へば

私、利休めはつくづく果報者である、菅原道真公のようなあらひと神になると思いば

私感です。

真之真台子の点前から亡き妻を忍ぶ様子がお道具の設えと帛紗の扱い方から感じられます。(たぶん私だけだと思いますが)

真之真台子での帛紗の扱い方は真之行台子以下のお点前とは違います。

 

切腹のため大阪から京都の淀まで籠で護送され、淀の船着き場で見送りに来たのが古田織部と細川忠興でそこで最後の別れをしたのでしょう。

思いやれ 都を出でて 今夜しも

淀の渡りの 月の船路を

 

千利休が、自から茶杓を削り、最後の茶会に用い、古田織部に与えた茶杓「泪」に、長方形の窓をあけた筒をつくり、その窓を通してこの茶杓を位牌代わりに拝んだと伝えられます。

筒は総黒漆塗でキリスタンを思わせこれを垂直に立てると位牌に見えます。

 

●利休切腹の原因については、大徳寺山門に掲げた利休木像の件が一般的に知られますが、秀吉の本心は利休と利休を慕う武将たちそしてその背後に潜むイエズス会という巨大な力を恐れていたからで、それゆえにキリスタンとは対照的な朝廷の力にこだわったのでしょう。

 

利休切腹の4日前の利休最後の茶会に、ただ1人招いた客が徳川家康でした。
その時使用された茶杓が「泪」であり、その後古田織部に遺贈されてます。
徳川家康の茶の湯の師匠は古田織部ですがその徳川に切腹させられました。


2024年03月29日

炉の唐物点 なぜ茶筅は炉の柄杓側に置くの?

相伝である唐物点と盆点
唐物点は行台子の割り稽古
盆点は真之行台子の割り稽古になります。

そして台天目点や和巾点で、これを四ケ伝といいます。
共通しているのは
唐金の建水を使います。
唐金が陰でその上に置かれる柄杓は陽なので、陰陽のバランスが取れています。

唐物点、台天目点そして盆点では曲げの水差しを水で濡らして使います。
これはキリストの洗礼を表していると考えられます。

では和巾点ではなぜ曲げの水差しを使わないのでしょうか。

それは和巾点の対象は1865年、玄々斎が孝明天皇に献茶したお点前になります。
孝明天皇は外国嫌い、神社にお参りに行った際、『神風よ吹け、外国勢を追い払ってくれ』と祈願しています。

 

神風という言葉を最初に発した人物です。
なので和巾点のお点前は100% 『和』で行われています。
だから洗礼と結びつく曲げの水差しを水で濡らしてから使うのを避けています。。


国焼きの水差しに塗蓋、これは応仁の乱の最中に朝廷からいただいた水差しの蓋を割ってしまったため、真塗の蓋を使ったといわれています。
そして蓋の二引きは足利家の旗印であるため、孝明天皇は喜びます。

利休は二引きではなく三引きです。
三引きとは父と子と精霊の三と思います。

又はアメノミナカヌシ、タカミムスヒ、カムムスヒも造化三神にもなりますが、当時の千利休のキリスタンへの信奉から見ると父と子と精霊の三の方が強く感じられます。

炉では唐物点、盆点、行之行台子は柄杓は炉淵の横に置きます。

茶筅は炉淵の横で畳五目の谷間に置きます。
五目は陰、谷間も陰で陰と陰

柄杓は陽で茶筅も陽
ここでも陽と陽

二つの陰と二つの陽で四になります。

 

四は十字架の神聖な十文字を表しています。

キリストの副音書は四つから構成されています。

マタイ

マルコ

ルカ

ヨハネ

 

そしてキリストの処刑が西暦30年4月7日 金曜日

茶道ではまだ炉の季節です。

なので茶筅は炉縁の方に置かれます。

 

和巾点では炉縁の方に置かないということは、そのことを意識しているからでしょう。

 

では台天目点はどうなのでしょうか、

台天目点は唐物点や盆点の唐物茶入とは違って和物茶入になります。

台子12段でも和物茶入が置かれると、唐物茶入が置かれているお点前とはかなり違ってきます。

 

人の気持ちはその時によって変わるものです。

だからこそこの人はこうだと決めつけないのが『和』になります。

割り切れない相手に対してその割り切れないことを認めることが『和の力』なのです。

 

それに対して唐物での台子お点前は神様への献茶を意味しているのです。

その証拠に真之茶事では利休像を置きます。

利休像すなわち神です。

だから厳粛なお点前になるんです。

 

台子は臼子と書きディウスと呼ばれていました。

全能の神ディウスからきているため、秀吉は台子でのお点前を禁止しています。

それにもかかわらず千利休は禁中茶会で『セント・ルカ』という名をイエズス会からいただいて、台子でのお点前を行っています。

 

秀吉の前でミサを行ったんです。

千利休が切腹させられた本当の理由はそこにあるのかもしれません。

このころになると千利休は大徳寺にある前の家に引っ越しています。

大徳寺聚光院は三好家と千家の墓があります。

 

利休の名は三好長慶の利長と実利から名をいただき利休になっていて、長慶の妹 稲と結婚をしているため、三好家の一族でもあります。

だから武士であり、武器商人そして茶を通してキリスタン大名を統率している参謀なので、最後は名誉ある切腹に処せられたんです。

 

これは私感です。台子12段の流れから、利休は亡き前妻である稲を心の支えとしていました。しかし大大名である長慶の妹としては、お茶を点てている夫をあまりよく思っていませんでした。

だから武士らしく見事な切腹をして、自分を陰で支えてくれた妻のところへ行きたかったのかもしれません。

 

古事記では冬にイザナギが亡き妻イザナミを恋しく思い黄泉の国へ会いに行きました。

台子12段では冬の台子手前では死後の世界を表しています。

 

台子は秘伝です。

台子でのお点前は当時秀吉によって禁止されました。

だから台子点前は危険だったからです。

だから一部の人にしか分からないようになっているため秘伝なのです。。

 

極めつけは、利休と後妻宗恩が生前葬を行ったことで12段は完成したのでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2024年03月14日

夜入め

キリスト教は三好長慶や織田信長公認の布教活動であっても、当時の庶民から見ると
侵入者であり、仏教徒から見れば自分たちの生活を脅かす侵略者に見えたに違いありません。

キリスタンノ布教はあまり目立つと危険なので目立たないような活動をしました。
そこで利休の提案した朝茶や夜込めがローマ教皇によって承認されたんです。


夜込めとは 暗いうちに炭を1又は2本おこし、庭に水を打ち、灯籠に明かりを灯します。
利休の時代では冬至では朝の4時頃から 夏至では朝の2時頃からお茶会を始めました。

これを暁の茶事といいます。
前座は夜咄風に、後座は朝茶事風の形式で行います。
この時代では冬至では朝の4時頃から、夏至では深夜2時頃から行われていたそうです。

現代の人とは時間の感覚が違っていますが、それでも人目につかないようにこの時間帯で夜陰の中で行われたのです。
現在ではそのような心配はないので、朝の5時頃から行われています。

夜込めでは、
前日消した灯籠に火を入れます。
灯籠といえば写真で見ましたが南宗寺の灯籠にはマリア像が彫られています。
これをキリスタン灯籠と呼びます。

灯籠は十字架やキリスタンを表しているんです。
夜込めでは茶室に入った客に対して前茶を出します。
そのため初炭では釜の湯を補充するために水次をしますが、本来の薬缶を持ち出して釜へ水を注ぎません。
濡れ釜にします。

濡釜とは

水屋へ釜を持って行き、水皿の上にすじ違いに置いてある釜据えの上に置く、
釜の蓋をしたまま水こしを通して水をかける、
釜の蓋を布巾で清める、、
台にあずける、
釜の湯をあける、
水こしを通して釜に水をさす、
水屋雑巾の上に釜をのせる、
釜の底の水を充分に拭き取る。

私個人としては濡釜とは洗礼になると思います。

半田は、はじめ和泉半田村から焼き出したので半田と言われるようにました。
巴半田は素焼のもので、その中に乾いた灰を入れます。

底取で巴状を描くので巴半田と言われます。

 

巴というのは水の卦で、火が乗るところに水の卦を描き、水の陰と火の陽で火の勢いをコントロールします。
暁の茶事での初炭手前では長火箸、底取りと巴半田を使い火が生まれ変わるのです。

 

そしてお菓子をいただくころには突き上げ窓(窓)を開けて朝の光が部屋に入り、巻いてある掛物を亭主が正客に掛けるように所望します。

 

掛け軸に朝日がさしていく様子はイエスキリストの復活を感じさせられます。

宗嘉流では暁の茶事は復活祭になります。

それは暁の茶事を通してあなた自身の復活祭になるんです。

 

暁の茶事では魂の復活を見てきた私には、その様な気持ちで亭主を務めさせていただきます。

 

1573年9月8日グレゴリウス13世により、『茶室でのミサ』 『非洗礼者の参加』 『夜明け前のミサ』が承認されました。

そして『夜明け前のミサ』が暁の茶事であると私は解釈しています。

 

 

 

 

2024年02月23日

同じ禁中茶会でも内容は利休と玄々斎とは真逆その真相は

禿ネズミ、猿と言われた無教養の秀吉にとつて利休はその穴埋めをしてくれる存在であり、
人間関係においても利休にはかなわず、大規模になった秀吉軍を裏で支えていた人物となります。


しかし大阪城内では利休を中心としたキリスタンの勢いが強くなってきたため、暗殺される恐れを感じた秀吉は、朝廷を味方につけて、関白になれば恐れおののいて敵対しなくなると思い、関白近衛前久(さきひさ)の養子となって1585年に関白秀吉になりました。


そして関白就任後3ケ月後の1585年11月28日に禁中茶会が開かれました。
これによって秀吉は、利休とその背後にあるキリスタンの脅威に立ち向かう力を得たと喜んだことでしょう。



秀吉が一番キリスタンを嫌がったのは一夫一妻制で妾を持つことが許されなかったこと、そしてローマ法王という巨大な力が邪魔になったんです。

 

そもそもキリスタンが大阪城内で拡大していくきっかけは、小牧・長久手の戦いで大阪城ががら空きになりそのスキに広がり始めました。


1585年11月28日に禁中茶会が利休による台子点前で行われました。
台子は当時全能の神ディウスを大臼(だいはく)と呼んでいました。
そして黒の真塗の台子を全能の神ディウスと見立ててていたため、秀吉は台子を禁止していたのですが、その台子でお点前をして濃茶の回し飲みをしたのです。


回し飲みはイエスキリストの最後の晩餐です。
キリスタンを嫌う秀吉の前で朝廷の面前で禁中にキリスタンを持ち込んだんです。

禁中茶会の出席者の中に、キリスタン大名であるレオン浦生、ジュスト高山やキリスタンに理解を示す豊臣秀次がいました。



後に関白秀吉によって
レオン浦生は毒殺(毒殺説が有力)
ジュスト高山は国外追放
豊臣秀次は切腹させられています。

その他のキリシタン大名2名はそのご行方不明になりました。
禁中茶会に参加したアンチキリスタンである細川忠興ただ一人だけが無事でした。

 

1591年2月13日利休は、堺の自宅を閉門の上一室に謹慎させられました。

同年2月28日京に呼び戻されたうえで切腹しました。

その間3000人の兵隊に囲まれてまるで戒厳令のようです。

 

 

豊臣秀長の死亡は1591年2月15日死因は病死。死後間を置かず同年2月28日に利休が切腹してます。
もし秀長が生きていたら利休の切腹は起こらなかったでしょう。
キリスタンに理解あるものが消されたという風にしか見えません。
私個人としては秀長は病死ではなく毒殺の可能性が感じられます。独裁者は合理的に邪魔なものを排除しますから。


そして利休切腹により以後禁中茶会は行われなくなりましたが、それを復活させたのが11代玄々斎で1865年、孝明天皇に献茶をしました。
この献茶が和巾点の原型になります。しかしこの和巾点も台子12段の和もの茶入を使ったお点前を応用しています。

しかも孝明天皇は外国嫌いなので台子は使っていません。お点前はすべて和で統一され、このお点前からは四ケ伝でありながら外国のお道具は使われていません。


2024年02月13日
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